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其ノ漆拾伍

 その病室の戸をノックする時、拳が僅かに震えた。


「どうぞ」


 返ってきた龍の声は以前と変わらず深く大人びて。華夜理は少し泣きそうになった自分に喝を入れた。ここは何があっても泣いてはならない場面だ。


 個室であることから龍の財力の程が窺えた。龍はベッドに半身を起こし、左手に文庫本を持っていた。眼鏡を掛け、華夜理の姿を見て瞠目している。


「どうして……。見舞いは全て断っている筈だ」

「卑怯な手を使いました」

「――――間宮小路家の名前ですか」

「はい」


 龍は観念したように文庫本をサイドテーブルに置いた。右腕には白いギプス。

 華夜理の視線の先を追った龍は、説明した。


「右腕を骨折していましてね。左手で本をめくるしかないのですが、これが中々やり辛い」

「……遠視でいらしたんですか」

「そう。軽い遠視ですが近くの物は見えにくい」


 そこで会話が途切れた。

 華夜理はサイドテーブルの上に置かれたミニバスケットに入った花を見た。まだ色鮮やかに咲いている。室内の深い焦げ茶の色調を主とした内装は自然林を思わせ、ソファーとテーブルまでベッドの手前に鎮座している。まるでVIP待遇だ。事実、そうなのだろう。


「どうして来たのですか」


 低い声で問うた龍に、華夜理も真剣に答えた。

 晶に何も告げず、暁子に今日の家庭教師を断ってまでここに来た訳を。


「貴方に謝罪する為に」

「やめてくれ、私はそんなものは望んでいないし、出来ればこんな姿を貴方に晒したくはなかった。どうせ桜子が何か言ったのでしょう。あれの言うことは気にしないでください」

「いいえ、私自身の意志でここに来ました。柏手さんが事故に遭われた責任の一端は私にあります。――――――申し訳ありませんでした」


 龍は聴いていられないと言うように何度も何度もかぶりを振った。


「貴方が謝ることじゃない。貴方のせいではない。何度でも言います」


 龍はしかし、華夜理の一歩も退かない顔つきを見て、震える吐息をこぼした。


「私が柏手さんの脚代わりになることは出来ませんか」

「どうしてそうなるのですか」

「それは、私が、貴方から脚を奪った張本人だから」

「…………」


 頑なな華夜理の据わった目を見て、龍も態度を改めた。


「晶君はこのことを知っているのですか」

「いいえ」

「そうでしょうね。では華夜理さん。私が、改めて結婚して欲しいと望めば応じてくださいますか」


 華夜理を覆う固い空気が、初めて揺らいだ。




「あれ?」


 教室のざわめきの中、晶は手元の栞を見て眉をふとひそめた。

 前の席の男子が振り返る。

「どうしたー?間宮小路」

「いや、従妹に貰った栞の、紐が切れた」

「栞ってあれ?建築家デザインの高そうなやつ?」

「うん。去年の誕生日プレゼントに貰った」

「……紐ってそうそう切れるものかよ?」

「そうでもないから驚いてるんだよ」


 教科書に挟んでいた栞の真紅の紐は、まだ新しいというのに途中で切れていた。

 赤の切断。

 嫌な予感が、した。



挿絵(By みてみん)





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