其ノ漆拾参
晶は昨年の冬、華夜理が風邪をひいた時以来、初めて、実家に自分から電話を掛けた。
龍の入院している病院を知る為だ。もう夏だというのに固定電話の受話器が、やけに冷たく感じられた。
果たして晶が用件を切り出した時の栄子は。
『ああ、あれ……。お気の毒だったわね。でも放っておきなさいよ。もう柏手さんに用はないわ。両脚が不自由だなんて、ねえ……』
間宮小路家の財産を得るべく龍を仕掛けておきながら、脚が不自由になると途端に用済みとばかりに切り捨てる。
晶は激昂しようとする自分を抑えるのに必死だった。龍は晶にとって好ましい相手ではないが、こうまで蔑ろにされるような人間でもない。
「華夜理も見舞いに行きたがっているんです」
『ねえ、晶。人にものを頼む時はどう言うの?』
受話器をきつく握り締める。
「――――――教えてください。お願いします」
『最初からそう言えば良いのよ』
ご満悦な栄子の顔が思い浮かぶ。
龍の入院する病院を訊き出した晶は、静かに受話器を置いた。
慎重に扱わねば受話器を投げつけそうな衝動があったからだ。
「晶。叔母様、教えてくださった?」
傍らに立つ華夜理が心配顔で訊いてくる。
「うん」
「良かった」
「でも……」
「でも?」
晶には懸念があった。
「柏手さんは僕たち……、特に華夜理には会いたくないかもしれない」
「どうして?」
ことりと首を傾げる華夜理を晶は憐れむような目で見る。
「男だからだよ」
それでも得心した様子のない華夜理に、晶は心中だけで嘆息した。
晶の学校の期末試験最終日の午後、二人は連れ立って県立総合病院を訪ねた。その頃には桜子に渾身の力で殴られ、腫れ上がっていた華夜理の頬も僅かに痕跡を残すばかりとなった。
もう間もなく蝉の鳴き声が聴こえそうな、晴れた日のことだった。
華夜理はお見舞いに相応しく大人しやかな白大島の着物を着て、晶は制服のままだった。いつもの花屋ですぐに飾れるミニバスケットに入った花を買った。
晶は少し思案して、病院まで市バスで向かうことにした。華夜理の最近の症状は良好だ。バスに揺られても問題ないだろう。今は健康状態も安定している。――――――ただ心ばかりは気掛かりだった。
病院の敷地にはプラタナスの樹が整然と植えられていた。青く若い緑が健やかさを感じさせる。
窓口の女性に龍を見舞いたい旨を告げると、少々お待ちください、とにこやかに言われた。
やがてナース服に薄いピンクのカーディガンを羽織った恰幅の良い女性が出てくる。
「申し訳ありませんが、柏手さんはお身内を除いて一切の見舞客を断るよう、希望してらっしゃいます」
「え……」
「どうしても無理ですか?」
晶が尋ねると、看護士は重々しく頷いた。
「当病院の決まりでは、こういった際、患者さん本人のご意向を確認、尊重することが義務付けられています」
木材がふんだんに使われた贅沢な広い空間。
その一角にある受付で、華夜理と晶は所在無げに立ち尽くすことになった。
「せめてお見舞いの花を渡していただけませんか?」
華夜理が食い下がると看護士はそのミニバスケットに入った花が危険物であるか否か見極めでもするように一瞥したあと、一つ頷いて受け取った。大柄な看護士がそう振る舞うと、まるで強面の兵士のような威厳があった。
「お渡ししておきます」
黄色やピンクの小さな薔薇が敷き詰められた箱が華夜理の手から看護士に渡される。華夜理はミニバスケットを赤ん坊ででもあるかのようにそうっと手渡した。
こういう流れになるかもしれないことは、晶には予想出来ていた。
ただ、華夜理が納得するまで付き合ってやりたかった。
今の彼女はこれまで以上に脆くひび割れた硝子だ。
帰りはタクシーを使った。
龍を見舞えなかったことで少なからず消沈しているであろう華夜理への晶の気遣いだ。
華夜理は何も喋らなかった。
唇を真一文字に引き結んで、ただ宙を見ていた。
だが晶には彼女が見ているものが解るような気がした。
――――アートアクアリウム。
自分の為にその観覧券を手に入れようとしたのであろう龍に、華夜理はひたすら詫びていた。胸が苦しかった。
泣き喚いて何とかなるのなら。
彼が二度と歩けないと言うのなら、自分の脚を代わりに差し出せれば良いのにとさえ思っていた。
華麗な硝子と金魚たち。
それに無邪気に惹かれた自分。
そのことを龍に話した自分。
そのどれもを、今の華夜理は許せない気持ちでいた。