其ノ漆拾弐
その後しばらく、龍も浅葱も浅羽も、栄子たちすら間宮小路家を訪れない日が続き、まるで時間が晶と華夜理の二人だけで過ごしていた頃に逆戻りしたかのようだった。唯一の訪問客と言えば家庭教師の暁子だけだった。
水族館に行ったことを機に二人は穏やかな時間を取り戻しつつあった。
華夜理は晶に言われたように自分の心を静かに探っていたし、晶もまたそんな華夜理を静観していた。
あと少し。
あと少しで絡まった糸がほどけ、全てがあるべき場所に収まる気がしていた。
二人共に。
夏らしい一日の始まり、華夜理が玄関に打ち水をしていると、見慣れた黄色いコンパクトカーがキキッというブレーキ音を鳴らしながら駐車場に停まった。荒い運転に華夜理が目を丸くしていると、中から桜子が鬼のような形相で出てきた。
服装は乱れ、化粧も碌にされていない。
そんな桜子を見るのは初めてで、華夜理は身を硬直させて、ツカツカと歩み寄る桜子をただ見ていた。
桜子が腕を大きく振り上げる。
容赦のない力で華夜理は叩きつけられ地面に伏した。
桶の中の水が一斉にこぼれ出る。
華夜理の鼻からは鼻血が出ていた。
何事かと晶が家から出てきて、倒れ伏した華夜理と、肩で息をしている桜子を見遣る。桜子は続けて華夜理をぶとうとした。
しかしその手は晶によって止められる。晶は掴んだ桜子の手首に強い力を籠めた。
「……っ痛」
「華夜理はその何倍も痛かったでしょう。僕が別れを切り出した時には、毅然として引き下がって見せた貴方が、今更どうしてこんな錯乱じみたことを……」
桜子が手を乱暴に取り返し、肩を揺すって嗤い始めた。
「痛い?痛いですって?両脚を失うのとどっちが痛いと思う?」
晶が眉をひそめる。
「何の話ですか」
桜子は、晶と華夜理を交互に睨み据えてから続けた。
「兄さんが、アートアクアリウムの券を手に入れる為に車を運転している途中、飛び出した子供を避ける為に事故を起こし、脊髄損傷したわ」
晶も華夜理も息を呑む。
桜子はそんな彼らを嘲弄するように更に言い募る。
「両脚の麻痺が一生、残るんですって。もう二度と、自分の足で歩くことが出来ないのよ。その子のせいよ。兄さんはアートアクアリウムになんて興味ないもの。近くで開催されると聴いて、その券を手に入れる為に運転しなければ兄さんは事故に遭わずに済んだ!この……、疫病神!!」
華夜理は鼻血を流しながら顔面蒼白になり、晶もやや蒼褪めた。だが華夜理よりは先に我を取り戻した。
「……だからと言って華夜理を責めるのは筋違いです。暴力を振るったのは貴方の八つ当たりだ」
晶は華夜理を助け起こしながら静かに言った。
その言葉と華夜理を労わる手つきに、桜子は、く、と唇を噛むと身を翻して再び車中に消えて行った。乱暴に発進される車。
華夜理はガタガタと震えていた。晶が手を取り、支えるようにして家の中に導きながら言い聴かせる。
「華夜理。君のせいじゃない」
「でも晶」
「良いね?これは決して君のせいじゃない。不幸な事故だったんだ」
ほどけそうだった糸がまた絡まる。
華夜理は目眩がしそうな心地で突き抜ける蒼天を見上げた。