其ノ漆拾壱
なぜか山際にある水族館は、両翼を広げたような形になっている建物だ。
水族館の中は薄青い照明で照らされていた。
華夜理と晶は初め、言葉少なだったものの、次第に華夜理が展示されている生き物に夢中になり、晶に対して饒舌になった。
イルカショー、アシカショーなどを観る時のことを考えて、華夜理は水が飛んでも被害が少ないように、水色の、縦ボタンの部分にギャザーが入ったワンピースを着ていた。
うろうろと歩き回ろうとする華夜理を、晶が手を掴んで引き留め、誘導する。
天井まで硝子張りで魚が泳ぐ箇所に来ると、華夜理は笑顔になり晶に指差した。
銀色の名も知らぬ魚たちが身体を取り巻くように泳いでいる。
晶は華夜理が何を考えているかすぐに判った。
アートアクアリウムだ。
「素敵ね。硝子に色がついていたらもっと素敵」
華夜理がやや興奮した口調で言うのに、晶は微苦笑気味で頷いた。
この青い空間の中でなければ、これ程屈託なく華夜理は話さなかったかもしれない。晶がまだ桜子と付き合っていることを考えて押し黙ってしまっただろう。
晶はこの機会をくれた龍に、不本意ながら感謝した。
「晶、あそこ、クリオネがいるみたい」
華夜理が指差したのは小さな水槽だった。周りに人だかりが出来ている。
「クリオネね。流氷の天使とか言われてるけど、結構捕食シーンはえぐいらしいよ」
「え、ほんと?」
「確か」
「あんなに可愛いのにね……」
間近で見てもクリオネの愛らしさは変わらず、華夜理は生命の不思議を思った。
柱状になっている大きな水槽では、大小様々な魚が泳いでいた。
マンボウがのっそりと泳いでいて、華夜理の笑いを誘った。
今日はよく笑うな、と晶は思う。
最近は憂いがちな顔ばかり見ていた気がする。――――原因は自分だが。
その、原因は自分であるところに晶は罪悪感を抱き、また、満足する。自分に辟易しながら、晶は華夜理の笑顔を眩しいもののように見つめていた。
「華夜理、そろそろイルカショーが始まるよ」
「あ、はあい」
すり鉢状になった椅子の中心に、水槽と、そうでない箇所が設置されていた。
観客は多く、中でも子供の姿が目立つ。
お決まりの台詞を言った飼育員が、イルカに指示を出すと、イルカが天井に吊るされた赤いボールに向かってジャンプする。
撥ねる水飛沫。晶は華夜理に掛からないように、観客席でも後ろのほうに座っていた。その判断は正しかったらしく、前方にいた客は水が掛かったようで声を上げている。どこか楽しげな歓声だった。
「さあ、お客様の中で、イルカに触ってみたい方はおられませんか?」
飼育員の声に、晶は迷わず手を上げた。
「ではそちらの…、え?お隣の方ですか?どうぞ!」
他にも挙手した大人や子供はいたが、少年少女の組み合わせは飼育員の目を惹いたらしい。晶は華夜理を送り出した。
固い、と華夜理が驚く声がマイク越しに聴こえる。
イルカの皮膚は傍から見て想像するより固いのだ。
晶は満足げにイルカと触れ合う華夜理を見ていた。スマホでその光景を写真にも収めた。
イルカショーの会場の向こう側には青空と山の緑が見える。
(今日は幼児退行の気配がない……)
晶はそのことにほっとしていた。自分が同行しているからか、別の要因からか、それとも華夜理の症状自体が治りつつあるのか、それは解らなかった。
「楽しかったわ……。写真、たくさん撮っちゃった」
タクシーの中で、今にも眠りそうな華夜理が呟く。
「良かった。柏手さんにお礼を言わないとね」
晶がそう返すと途端、華夜理の顔が不安に曇った。
龍と懇意にすべきだと言われたような気がしたのだ。
晶は慌てて言い添える。
「これを負い目になんて考える必要はないんだよ」
「でも」
華夜理の声が一段、低くなる。
「でも?」
「……何でもない」
だが晶にはその続きの予測がついた。
〝でも晶は桜子さんと今まで通り付き合うんでしょう?〟
その言葉が意味するところは独占欲、嫉妬。そして恋情。
華夜理は桜子に関することになると言葉の多くを呑み込むのだ。
「……華夜理。僕は桜子さんとの交際を断ろうと思ってる」
晶の声は凪いで穏やかだった。
華夜理が驚いたように顔を上げる。
「どうして……」
今日、華夜理と過ごしてしみじみ思い知らされたのだ。
桜子とのデートではこんな風に胸をときめかせることはない。満足感も、充足感もない。華夜理の心を独占したくて桜子との交際を決めたのが、そもそもの間違いだったのだ。今更ながら晶は過ちを悔いていた。
「僕には華夜理が一番大事だと、解ったからだよ」
まだ恋だとは告げない。
けれどその言葉を受けて頬を紅潮させる少女。
だから自分のもとまで来て欲しい。
虹の橋を渡ってその白い手を差し伸べて欲しい。
「急がないから、華夜理も自分の気持ちとよく向き合って」
華夜理はこくりと頷いた。真摯な表情だった。
体調不良により明日の投稿は難しいかもしれません。ご了承ください。