其ノ漆拾
事務所で、お茶を出された龍はありがとうと言って湯呑に手を伸ばした。
机上には二枚の券がある。
「最近、お顔が優しくなりましたね」
お茶を出した古参の事務員の女性が、自分まで優しくなったような顔をした。
穏やかな波長は伝播する。
「そうかな?」
龍は二枚の券をひらひらさせながら、椅子の背中にもたれた。
事務所の外は曇っている。僅かに湿ってもいるようだ。室内の温度計と湿度計の針がいずれも高い数字を指している。一雨来るのかもしれない。
温度計兼湿度計は木枠で作られた高価な物だ。龍が経営コンサルタントの事務所を開く時、友人が奮発した贈ってくれた。木枠の中の二つの円は金色の縁になっており、その中に数字と針があった。
「堅物の所長が、恋でもしておいでかと、専らの噂ですよ」
「…………」
これまで龍はどんな女性に言い寄られても靡かなかった。母の影響で女性嫌いの感があることは龍自身否めないところだ。
そんな龍に例外が出来たのは最近の話だ。
自分はそんなに解りやすいだろうかと、椅子にもたれたまま龍は考える。いやこの場合は女性所員が敏感なだけだろう。とかく女性のそうした嗅覚には龍は敵わないと思う時がある。
「このあとの予定はありませんでしたね」
「一件、斉藤様との打ち合わせが入っております」
「そのあとは?」
「ありません」
ありませんと答えた時の、事務員の女性の顔は笑っていた。自由な時間に龍がどこに行くかなど解り切っていると言わんばかりだ。
龍は苦笑して、お茶が美味しいねと言った。
晶たちの通う学校は丁度、期末テストに入っていたので、龍が間宮小路家を訪問した午後には華夜理だけでなく晶も在宅だった。
玄関の花も季節を物語り、大輪のカサブランカがクリスタル硝子に活けられていた。龍はその花の主張し過ぎる程の芳香を嗅いで、華夜理にはもっと控え目な花が似合うと思った。
とは言え、この邸宅の玄関の、床の間めいた空間に飾るには相応しい、王者のような華やかさがある花だと認めない訳にはいかなかった。
クリスタル硝子も絶妙なカットが入った逸品で、きらきらと輝いている。
それらを観察するでもなく眺めた龍は、華夜理の案内で応接間に入った。
「先日は桜子が失礼したようですね」
龍は桜子自身の口から、華夜理に会った一件を聴いていた。頭を抱えた龍に対して桜子は、兄さんと晶君が夢中になってる相手の、品定めするくらい良いじゃないと平然と言ってのけた。
「きつく叱っておきましたから」
「いえ、大したことは言われていません」
素早くそう答えた華夜理が、真実を告げていないことは龍にもすぐに判った。桜子は気性のきついところがある。もしかしたら華夜理の叔母はそこを見込んで彼女をけしかけたのかもしれないが。
それは決して龍の本意ではなかった。
向かいのソファーに座る華夜理を見る。
淡い藤色の小紋に抽象的な小花柄の染め名古屋帯。象牙色と白藍色の二色使いの帯揚げに、紅藤色の帯締めを合わせている。
全体的に慎ましく、且つ可憐な装いだった。ジャガード織りの草花がよく映える。
龍は胡桃材のテーブル上に、二枚の券を置いた。
問うように華夜理が龍を見る。
「水族館の券です。顧客先から貰いました。晶君と行ってきてください」
「でも……」
「私と外出すると、貴方はまた不安定な状態になるかもしれない。それは好ましくありません。桜子のことも気遣い不要です。あれはあれで勝手にやるでしょうから、華夜理さんが気にする必要はありません」
「どうしてこんなに良くしてくださるのですか?」
龍が茶目っ気のある笑顔を見せた。
「身も蓋もなく言えば、点数稼ぎです。奉仕することで、少しでも華夜理さん。貴方の心証を良くしようという。だから遠慮なく晶君と行ってらしてください」
小雨が降り出す音がしめやかに聴こえてきた。
さらりと告げた龍だが、内心、葛藤がなかった訳ではない。敵に塩を送るような真似をするのは、偏に華夜理を想うがゆえだ。
自分とはまた異なる傷を抱くこの少女が、屈託なく笑えれば良いと思う。認めるのは悔しいことだが、現在、それを成す役割に適しているのは自分ではなく晶だ。
華夜理の白い指が二枚の券を持ち、胸にそっと抱いた。
「……ありがとうございます。晶が私と行ってくれるかどうかは解りませんが、お心遣いを無駄にはしないようにします」
華夜理は晶に断られた時には、瑞穂と浅葱にこの券を活用してもらおうと思った。
龍が頷き、出された紅茶を飲み干して退出するべくマホガニーの扉を開けると、すぐ横の壁に腕組みして立つ晶がいた。
龍は笑んだ。
「私がまた手荒なことをしないよう、ずっとそこにいたのかい?」
「はい」
晶の答えは率直だった。
「では話も聴こえていたね。水族館を楽しんで。桜子はともかく、華夜理さんを泣かせてはいけないよ」
以前に桜子に軽軽に近づくなと念押しをされた晶は、そこは桜子の兄としてどうなのだろうと思ったが、とりあえずは頷いておいた。
厄介な相手に借りを作ったかもしれないと感じながら。