其ノ漆
華夜理は夢を見ていた。
水彩絵の具でさっと塗ったような空に、金の蝶、銀の鳥が舞い遊んでいる。
華夜理は一匹の鯉になって、水底からそれを眺めている。
水底にはたくさんのビー玉やおはじきが沈んでいる。とりどりの色のそれらは、なぜか芳しく匂った。夜の色を閉じ込めたような紺青と黒の入り混じったビー玉の表面に、晶の顔が映っている。彼は微睡んでいるようで、長い睫毛が下を向いていた。華夜理は晶に気付いて欲しくて声を出そうとするが、口がぱくぱくと動くばかりだ。天を見上げる。金の蝶でも良い。銀の鳥でも良い。どちらか晶に気がついて、その眠りから覚ましてはくれないだろうか。華夜理のその願いが聞き届けられたのか、銀色の羽毛も煌びやかな鳥が池に急降下してくる。華夜理が安堵するのも束の間、銀の鳥は晶には見向きもせず華夜理を啄んでしまった。
そのまま空へと引っ張り上げられる。
池が、家が小さく遠くなる。
銀の鳥は飛翔を続けながら尚も華夜理を啄むことをやめない。不思議と苦痛はなく、それどころか華夜理は啄まれる度に、懐かしい昔の記憶に包まれていった。
父が笑っている。
母が笑っている。
その横に、晶が。少し困ったように微笑している。
なぜだか華夜理は泣きたくなる。
両親の笑顔に、胸を鷲掴みにされた思いになる。
(そうよ。解っているわ。お父さんもお母さんも、もういないの)
晶が困ったように微笑しているのは自分のせいだ。
あの華夜理にどこまでも優しい従兄弟は華夜理の嘆きを思い、自らの心も悲しみの色に染めてくれているのだ。
銀の鳥が華夜理を放す。天の高みから。
華夜理は落下しながら記憶の内奥、更に遠い幼少期に包まれていった。
柔らかく、柔らかく。
目覚めた華夜理はしばらく夢の名残りを揺蕩っていた。
浴衣が鉄線の柄の物から竜胆の柄の物に変わっている。昨夜、休む時は確かに鉄線の柄だった筈なのに、いつの間に着替えたのか。竜胆の花言葉は〝悲しんでいる貴方が好き〟だったと思い出しながら、華夜理は浴衣を脱いで着物に着替える。今日は色鮮やかな紅型を着る。悲しく、そして愛しい夢への感傷を、一新してしまいたい気持ちがあった。それにしても身体が怠い。昨日の池でのビー玉遊びで、身体を冷やしてしまったのだろうか。軽い悪寒もする。早朝の空気の冷えも手伝って、華夜理は身をぶるっと震わせた。
「華夜理。起きてる?」
晶の声がする。珍しい。華夜理は目覚めてから朝食までの時間を読書に費やす。それを知っている晶は、邪魔しないように配慮してくれる。だから晶が声を掛けたということは、何か大事な用があるのだ。
「起きているわ、晶。着替えも済ませているから入って頂戴」
さらりと障子が開き、いつもの端然とした居住まいの晶が部屋に入ってくる。
「着替えたのか」
「ええ」
「身体の調子はどう?辛くない?」
「それが、何だか怠いのよ。風邪をひいてしまったのかしら?」
晶は華夜理の答えを聴くとさっと彼女の額に手を当てた。
「……少し熱がある。今日は外に出ないで、大人しくしているんだよ」
晶の言い分は尤もで、そして彼が常に華夜理の体調を気遣い、更に言うなら怯えてさえいることを知る華夜理は素直に頷いた。
「本当は浴衣にまた着替えて欲しいところだけど…」
「それなんだけれどね、晶。おかしいのよ。寝る時は確かに鉄線の柄の浴衣を着ていたのに、目が覚めたら竜胆の柄の浴衣になっていたの。不思議でしょう?」
晶が微苦笑する。
「不思議でも何でもないよ。だって華夜理は昨晩、自分で浴衣を新しいのに着替えたんだから」
「……もしかして私、また夢遊病が出たの?」
「うん」
華夜理の時折、夜に幼児退行して記憶を混乱させる事象については、晶は彼女に夢遊病という言葉のオブラートに包んで説明していた。そして濡れた浴衣のままでは風邪をひくと思った晶は、華夜理に別の浴衣に着替えるように勧め、華夜理はそれに従順に従ったのだ。
「それで具合が悪いのね……」
得心した華夜理は白く細い人差し指を桜色の唇に当てる。桜色は本人の不興により僅かに歪んでいる。
「残念だね。折角、今日は浅葱が来るのに」
晶が悪戯めいた瞳で華夜理を見遣った。
華夜理の、微熱のせいかややくすんだ顔に薔薇色が差す。
「本当?嫌だわ、晶。どうして今日まで黙っていたの?意地悪だわ」
晶が笑い声を上げる。
「華夜理を驚かせようと思って」
「驚いた!驚いたわ、嬉しい」
はしゃぐ少女の様子に晶は目を細める。
「あっちの高校は実力テストが今日で終わって、そのあとうちに来るそうだよ」
「じゃあ、晶も早く帰れば浅葱に会えるのね」
「うん」
晶より一つ下、華夜理と同い年の浅葱は華夜理の母方の従兄弟だ。
小さい頃から三人で、よく一緒に遊んだ気心の知れた仲だった。
正確には浅葱と、もう一人――――――。
「だから浅葱に会う為にも大人しくしておいで。出来れば浴衣に着替えて床に就いて欲しいところだけど……」
「大人しくしているから、着物のままでいさせて」
久し振りに会える従兄弟だ。晴れ着で応対したい。
晶も華夜理の気持ちは解るらしく、軽く息を吐くと頷いた。