其ノ陸拾漆
浅羽の腕の中で、華夜理は涙を止めようと努めた。これはいけない。この状況は、不本意だ。
だが浅羽が言う。
「もう、良いだろ。晶を解放してやるんだろう?」
これ以上ない優しい声音で。
「俺にしとけよ」
華夜理はもがき、浅羽の抱擁から逃れた。
浅羽は澄んだ双眸で華夜理を過たず見抜いている。
「私の一番は晶なの」
「恋愛じゃないんだろ?」
「私、じゃあ私は、恋愛はしない。柏手さんのプロポーズも断る」
龍のプロポーズの話は既に浅羽は耳にしていた。
「ああ、断れば良い。でも恋愛しないなんて言うな」
そこで浅羽は少し躊躇うように間を置いた。
「死んだお袋さんが悲しむぞ」
華夜理の目から、ようやく収まったばかりの涙がまた流れ始めた。
もし母が生きていれば、恋愛の相談などもしたのかもしれない。晶が一番でも良いでしょう、それでも恋愛でなくて良いでしょうと相槌を求めたかもしれない。けれどそれは考えても悲しくなるだけの詮無いことだった。浴衣は今は竹林の柄で。目で見ているとさらさらと葉擦れの音が聴こえるようで。慰撫されてでもいるかのようで。ますます泣きたくなる。
浅羽は困った顔で華夜理の頭を撫でた。それ以上、近寄ることなく、ずっと黙って華夜理の頭を撫で続けた。
「言うべきじゃなかったな。悪かった」
華夜理は首を横に振る。涙の欠片が散って電気の光を反射して煌めいた。
晶は自室で明日の英語の予習をしていた。だが内容が頭に入ってこない。
浅羽の存在が晶には今や脅威だった。龍よりもずっと。
今頃、浅羽は傷心の華夜理を慰めているだろう。抱き締めたりなど、しているかもしれない。勉強机に取り付けられたデスクライトが英字を浮かび上がらせ、机上に置いた手の陰影を濃くする。濃い陰はそのまま晶自身の心情の闇を表わしているようだ。
桜子と付き合うと決めたのは自分だ。
それも華夜理の心を欲する一心で。
思惑通り、華夜理は傷つき、悲しんでいる。
そんな華夜理を浅羽が慰めるからといって、自分に何の文句が言えるだろう。
理性的な思考とは別に晶は落ち着かなかった。
今、華夜理の傍には浅羽がいる。
身体的な距離における意味だけでなく、心情的な意味においても。
華夜理が晶を求める気持ちを恋慕だと認めてくれたなら。
華夜理に異性として好きだと打ち明けることが出来たなら。
晴れて堂々と華夜理を自分の手で笑顔にすることが出来るのに。
もう泣かせたりはしないのに。
このからまった糸を解きほぐすのは、ほんの簡単な言葉で足りる筈なのだ。
けれど晶はまだ足踏みしていた。
華夜理に想いを打ち明けて、彼女が怯えたら。晶を家族以上と言い切る華夜理と晶のそれとは意味合いが異なる。
華夜理は晶から距離を置こうとするかもしれない。
今以上に華夜理が遠くなるのは、晶には耐え難いことだった。