其ノ陸拾陸
帰宅した晶に桜子が来たことを話すと、晶はやや渋面になった。
「嫌な思いをしなかった?」
そう訊かれた華夜理は首を横に振った。力なく。ここで晶に告げ口するような行為は、卑しいような気がした。
だが晶には伝わるものがあったらしい。嘆息する。
「もう、華夜理には会わないように言っておくから」
「でも晶は」
そこで華夜理は言葉を呑んだ。
「僕は?」
「ううん、何でもない」
華夜理は自室に戻り、金魚に早めの餌をやった。
朱と白の、彩りを見ながら先程呑み込んだ言葉を思う。
(でも晶はまた桜子さんに逢うでしょう?)
それは明白な事実だ。二人は付き合っているのだから。
その明白な事実が華夜理の心にどうしようもなく濃い陰を落とす。
改めて見て、桜子は綺麗な女性だと思った。それに健康で大学という外の世界に平気で馴染んでいる。自分には敵い様がない。
敵い様が、と考えたところで華夜理はふと思考を止める。
なぜそんなことを考えるのだろう。
自分が桜子に対抗する必然性なとどこにもないではないか。
きっと自分は、家族以上に大切な晶を桜子に独占されるのが怖いのだ。
ただそれだけだ。
ただ、それだけで。
こんなにも胸が痛い。
華夜理は付書院の前に蹲り、涙を堪えた。
瑞穂は桜子が華夜理をいたぶる積りで家に来たのだと言った。
それならばその目論見は成功している。
桜子の残した傷跡は、深く膿んで、華夜理を苦しめた。
まるで美しい毒を盛られたかのようだった。
その晩、華夜理は夕食を摂らなかった。
晶が心配すると解っていても、どうしても食事が咽喉を通る気分になれなかったのだ。気持ちが塞いでしょうがなかった。
入浴し、部屋で本を読むでもなく床に就き、仰臥して天井をぼんやり眺めていると、襖の向こうから声が聴こえた。
「華夜理。大丈夫?また熱が出た?」
そうではない。そういうことではないのだ。華夜理は見当違いの心配をする晶が腹立たしくなった。
あんなに綺麗な人がいる癖に。
理屈の通らない憤りだと自分でも解っていた。だが腹立ちは収まらず、次第に悔し涙まで滲んできた。
「違うわ、晶。大丈夫だから放っておいて」
違う。晶。大丈夫なんかじゃない。あなたのせいよ。
心の声と実際に出した声には大きな落差があった。
あなたのせいだから。
あなたのせいだから抱き締めて。
(違う。そんなこと思ってない)
「……開けるよ」
晶が襖を開けて入ってくる。普段は華夜理の意志を尊重するのに。
「一体、何が気に喰わないの?桜子さんのこと?」
華夜理の横に跪き、核心を突いてくる。
「違うわ」
「違わない。華夜理は桜子さんに嫉妬してるんだ」
「そんなことない。例えそうだったとしても、それは晶のことが家族より大切だから。ただそれだけよ」
「……華夜理。誤魔化すのはもうやめないか」
「私は何も誤魔化してなんかない」
「華夜理――――」
尚も晶が言い募ろうとした時、明かり障子が叩かれる音がした。
二人は沈黙する。
明かり障子は続いて叩かれる。
「おい、華夜理。寝てんのか?」
それは二人のそれぞれに響く夜の声。沈黙を別つ声。
浅羽の声が聴こえた途端、晶の顔からすっと表情が消えた。
華夜理から離れ、部屋から出て行く。
華夜理はそれを引き留めることなく、明かり障子を開けた。
「何だ、起きてんじゃないか――――何、泣いてんだ?お前」
浅羽の前で涙は禁物だと華夜理は承知していた。
けれど堪えることが出来なかった。明かり障子から室内に入った浅羽は、泣く華夜理を抱き締めた。