其ノ陸拾伍
植物園。
ショッピングモール。
映画館。
美術館。
公園。
桜子はこれまでに晶とデートで行った場所を思い浮かべていた。朝、シャワーを浴びながら。魅力的な曲線を描く肌に水滴が熱く弾ける。
今までに付き合った男性は皆、桜子を女王のように敬い、熱を上げ、桜子と結ばれることを願った。その内、一人だけ、願いを叶えて肌を合わせた男性に、晶は少し似ている。端整な面差し。眼鏡越しの瞳。
あの瞳で自分を欲しがってくれたなら。
桜子はキュッと蛇口を締めるとバスタオルを取った。身体を拭くと衣類を身に着けていく。髪を乾かし化粧をして、仕上げは桜モチーフの香水だ。品名に、自分の名前が入っているところが気に入った。
ふと鏡を見てそこに勝気な面差しの美女を見出す。
唇の両端を吊り上げて笑んでみせる。
完璧な笑顔。
しかし桜子には予感があった。
この完璧な笑顔も散る時が来るだろう。
そしてその散らす相手は晶だろう。
今年の桜の花も、散ったように。
その日の午後、桜子は休講になった時間を利用して、間宮小路家を訪ねることを思いついた。
晶はまだ学校の筈だ。
と、すれば華夜理と二人きりになる。
あのおどおどとした、小心そうなお嬢様はどんな顔をするだろう。
晶が至極、大切そうにしている少女の心に、引っ掻き傷の一つもつけてやりたい。
実際、晶は自分といる時、礼儀正しくはあるが、さして楽しくもなさそうな顔をしているのだ。それが桜子には口惜しい。妬ましい。
その事実はつまり桜子がそれだけ晶に夢中になっている証拠であり、それに反して晶の心は桜子にはない証拠でもあった。
桜子はコンパクトカーを間宮小路家の駐車場に停めた。
下り立ち、大きな門を見上げる。門はいつも開かれている。
玄関の呼び鈴を鳴らすと、しばらくして、誰何する少女の声が聴こえた。
その時に、ほくそ笑んだ桜子の表情は歪んでいた。
「……桜子さん。晶なら、まだ学校ですが」
戸惑うようにそう言う華夜理の、今日の装いは白大島の紬に赤いどこか童話めいた意匠の帯、茜色の帯締めを合わせてある。
ふうん、と桜子は思う。
先日は野暮ったいと思ったけど、こうして見ると着物も案外、悪くない。しかもこの少女は着物を着なれている者特有の空気があり、如何にも借り物めいた雰囲気は微塵もなかった。レモンイエローの、今時のデザインのワンピースを着ている自分にも負けていない。
綺麗な少女だと、改めて思わずにいられなかった。
素直な称賛と認めたくはないが僻み。
「知ってるわ。今日は、華夜理さんとお話したくて来たの」
「私とお話……ですか?」
華夜理は更に戸惑う表情を見せたが、元来が素直な気質の彼女は桜子をあっさり座敷へと招いた。
「へえ。こういうところでご飯を食べてるのね」
華夜理がお茶を淹れて戻ってくると、桜子が興味深げに座敷を見回していた。
屋久杉の赤茶色の卓に黒い茶托を置き、その上に有田焼の湯呑を置く。有田焼は青い桜の絵付けがされた物だ。
桜子はそれを見遣り、ふと笑う。
「私の名前に合わせてくれたの?」
「はい」
「ありがとう」
「いえ」
「晶君ね?」
晶の名前を桜子が出したところで、華夜理の身体に電流が奔ったようになった。
「……はい」
「優しいの。雨が降ってたら歩道の、車道側をさりげなく歩いてこちらに水の撥ねが来ないようにしてくれるし、ショッピングで、私が見たい物があって立ち止まると、必ずその都度、付き合ってくれるの」
「はい」
傷つけ、傷つけ。
桜子の内奥からそんな凶暴な声がしていた。思えばその思いは伏流水のように、ずっと桜子の中にあったのだ。それが今、溢れ出ている。桜子の口は止まらない。
「キスはまだだけど抱き締めてくれたわ。その内、一夜を共に過ごす日も遠くないでしょうね」
華夜理の顔が悲惨なものになる。
その顔。
その顔こそを見たかった、と桜子は歓喜する。その歓喜は今、桜子が身に纏うレモンイエローのような明るい色ではなく、もっと暗い、湿り気を帯びたものだった。晶の心を占めている狡い華夜理には、少しぐらい辛い思いをしてもらっても良いだろう。今では華夜理は、〝華〟が萎れたようになっている。
そこで桜子は優しい声を出して続ける。
「ごめんなさい、はしたないことを言ったわね。この話は忘れて」
華夜理の心に楔を打ち込んでおいてからそう告げる。
「それとも忘れられないかしら?貴方も晶君のことが好きだから」
「……恋愛対象としてではありません」
「そう!じゃあ、私と晶君の仲が進展しても、何の問題もないわね」
桜子はわざとらしく無邪気に声を張り上げた。
「――――はい」
そこに瑞穂が帰ってきた。今日はいつもより早い。
「ただいま。お客様?」
「糸魚川さん、お帰りなさい。こちら、柏手桜子さん」
「ああ……」
瑞穂には予め簡単な説明をしてある。
桜子は明るい笑顔で瑞穂に挨拶した。
「どうも、初めまして。柏手桜子です」
「……初めまして。糸魚川瑞穂です」
華夜理が桜子を見送ってから、座敷に戻ると、瑞穂が不機嫌な表情でまだそこに佇んでいた。丁度、華夜理の帯締めと同じ色の、茜を薄く溶いたような陽光を浴びている。
「どうしたの?」
「あの女、貴方をいたぶりに来たのよ」
「え?」
「私にはどうでも良いけど」
そう言って瑞穂は二階の自室に引き揚げて行った。
華夜理はぼんやりと茶器を片付けていた。
自分はいたぶられたのだろうか。
けれど晶との話題でいたぶられるというのは少しおかしい。
なぜなら自分は晶に対して恋愛感情を抱いていないからだ。
では今、胸を占めるこの痛みは何なのだろう。
考える華夜理を、有田焼の桜が見ていた。