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其ノ陸拾肆

 龍は華夜理を外出させることに難色を示す晶の要望を呑み、家でのみ華夜理と逢った。華夜理もそうしたいと望んだし、何より龍も華夜理の幼児退行の事実を重く受け止めていたからである。


 晩春の最後の桜も散り終える庭が見える座敷で、華夜理は龍のリクエストで『朧月夜』、『埴生(はにゅう)の宿』を大正琴で弾いた。


 合理的、モダンな空気を纏う龍が、そうした郷愁めいた曲を望むことが華夜理には意外だった。

 龍はゆったりと縁側に寛いで、庭を眺めながら華夜理の演奏を聴いている。

 どこかしら、野生の優美な獣が寛ぐ様を彷彿とさせた。


 空は悲しい程に青い。桜の花びらが池に(はな)(いかだ)を作り、散り際の美を演出しようとしている。


 金色の太陽が柔らかに溶け、物悲しさと麗らかさが漂う午後だった。

 『朧月夜』も『埴生の宿』も、それらの空気をより濃厚にした。


 演奏し終えた華夜理に龍が拍手を送る。


「どこか帰りたいところでもおありなのですか?」


 華夜理は龍に尋ねた。

 

「え?」

「そういう、心のどこかに故郷を持つような人が望む曲を望まれたので」

「ああ……、そうかもしれません」


 龍は華夜理に正面から向き直ると、真顔で答えた。


「私には帰りたい過去がありません。戻りたい時もない。いつも前へ前へと進みながら生きてきた。けれど華夜理さんと逢ってから、戻りたい場所を見つけたような気がしたのです」

「…………」

「貴方が、私の帰るところになってくれればと願います。このまま話を進めて、私と生涯を共にしてくれませんか。華夜理さん」


 華夜理は龍の唐突なプロポーズに驚き、危うくピックを取り落すところだった。

 鼈甲(べっこう)柄のピックに次いで、今使っている虹色のピックまで琴の穴に消失させてしまう訳には行かない。


 それにも増して、華夜理の脳裏には晶の顔が浮かんでいた。

 晶。

 桜子と、もう何度かデートを重ねたらしい。

 そんな日はいつも甘い香水の匂いをさせて帰ってくる。さして面白そうな顔もせず、淡々とした表情で。

 晶は桜子が好きなのだろうか。


「晶君が気になりますか」


 華夜理は龍の言葉に俯く。

 龍は立ち上がって伸びをして、また縁側に出た。

 青い空を遮る影が黒く落ちる。


「返事はゆっくりで良いです。一生を左右することですからね。求婚を受け容れてくれるとしても、結婚自体はもう数年先でも良い。貴方は若い」


 青い空にひらりはらりと名残りの桜が散って。


 龍の向こうに過ぎて行くのが見える。

 華夜理は縁側に落ちている桜の花びらの数を数えるともなく数えた。

 そして思う。


 これを知った晶はどんな反応をするだろうか、と。

 自分が桜子とのことで心を痛めているのと同じくらい、いやもっと、心を痛めてくれたら良いのに、と。

 そう思う自分に驚き、恥じ入り、嫌悪した。

 華夜理は顔を両手で覆って泣いた。


「華夜理さん?泣かせるようなことを言いましたか?」


 龍の困ったような声に華夜理は首を振る。萌葱色の着物の袖も揺れる。


「私は柏手さんに、そんな風に言ってもらえる人間ではありません。醜くて。桜のひとひらにも劣る矮小(わいしょう)な人間です」

 


挿絵(By みてみん)





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