其ノ陸拾参
華が舞う。
千鳥柄の浴衣を閃かせて、華夜理の周りに飛沫が上がる。
朧月夜の晩のこと。
少女の刹那は光の輝きとなってまばらに飛散する。
きらりきらりと刹那が落ちゆく。
その一粒一粒の刹那に宇宙が凝縮されている。華夜理の白い手が何かを求めるように空に向かう。それは舞踊の一種のようで。命を燃やす舞踊のようで。
白い手は朧月に捧げられる。
くるりくるりと回転して、華夜理の浴衣の袖が舞う。
彼女の足下では、鯉たちが右往左往している。粒粒と泡を生じながら。この儚い乱入者に居住と安寧を脅かされている。
「やめるんだ、華夜理!」
晶が華夜理の池における舞踊に気付いたのは遅かった。その晩は浅羽も浅葱も訪問せず、華夜理の寝入るのを見届けたのは、『銀河鉄道の夜』を読んだ晶だった。
その後、晶も眠りに就き、けれど水音と妙な胸騒ぎで目覚めた。
自室の窓から見える池に、咲く華があった。
乱れ咲く華があった。
まだ熱があるというのに。最近は幼児退行がなかったので油断していた。
暖かくなってきたとは言え、夜に水浴びをして楽しむ程ではない。
晶は美しい、水の精のような従妹の姿に見惚れる間もなく、その手を引いた。無理矢理に中断された華の舞い。
蕩けた蜜が混じったような淡い月光を受けて。
享受された月光は少女の白磁の肌を幽かに染めて艶をもたらした。
「どうして来たの、晶」
「華夜理が無茶をしているからだ。肺炎にでもなったらどうするんだ!」
晶は華夜理の病状が悪化することを恐れる余り、きつい物言いになった。
華夜理の肩がびくりと跳ねるのを見て、後悔する。
「どうして来たの、晶」
「華夜理……。家に戻ろう」
「お父さんもお母さんもいないのに?」
「……僕がいるよ」
「晶は他の人を選ぶじゃない。晶は私を選ばないじゃない」
晶は混乱した。これはいつもの幼児退行とは少し様相が異なる。
華夜理は桜子の存在を、現在を認識している。けれど正常とも言い難い。幼児退行したまま、華夜理は現在の物事を辿っている。
「僕は華夜理しか選ばないよ」
「嘘」
「本当だ」
「嘘。嘘ばかり」
華夜理の裾はもうびしゃびしゃに濡れて、下半身は水中植物のようだ。
池の周りに置かれた花崗岩の雲母の光よりも、華夜理から滴る水のほうが煌めいている。
「お父さんもお母さんも晶も、この家にいる人は皆私を置いて行くの」
「そんなことはないよ」
言いながら晶の胸は悲しみに満ちていた。華夜理の手を引き渡り廊下から屋内に入る。タオルを持って来ていたので、渡り廊下に上がる前にそれで華夜理を丹念に拭いた。
暗い廊下を歩きながら着替えさせるべきか風呂を沸かして入れるべきか、悩む晶に、大人しく手を引かれていた華夜理が声を掛ける。
「晶」
「何だい」
「貴方が好きよ」
思わず、晶は瞠目して華夜理を振り返った。
「貴方が好きよ」
「……どういう意味で?」
「お父さんより、お母さんより」
「…………」
「だから晶も、私を選ばなければいけないの」
晶は足を止めて華夜理の瞳をじっと見つめる。
純粋無垢なその瞳は、華夜理が幼児退行している時、特有のものだ。
けれど今のような言葉を華夜理が口に出したのは、初めてだった。
これは華夜理の無意識の本音だろうか。
晶は高鳴る胸を抑えながら、浴槽に湯を張った。
何かとても大事なことを、晶に告げた気がする。
浴槽に身を沈めながら、完全に覚醒した頭で華夜理は考える。
どうやらまた夢遊病で、水遊びをしてしまったらしい。こんなことでは晶に呆れられてしまう。白くほっそりした肢体を湯で温めつつ、華夜理は晶の表情を思い出す。
歓喜。驚愕。恐れ。
それらがないまぜになったような顔をしていた。
湯を掬って顔を洗う。
身体は十分に温もった。
ただ、無理をしたせいか、頭痛が酷く身体が芯から熱い。これでは長風呂は逆効果だろうと判断し、華夜理は浴槽の縁を囲む貝を跨いで湯から上がった。
華夜理の心の迷宮は、まだ閉ざされている。
翌日、再び龍が華夜理を見舞い、華夜理が回復したその次の日曜には晶は桜子と出掛けた。
何かがちぐはぐなまま、大きな違和感の歯車が軋む音を聴きながら、華夜理も晶もあたかもそれがないもののように振る舞った。




