其ノ陸拾弐
龍は僅かに遅れて華夜理の見舞いを申し出た。固定電話に掛かってきたその申し出を、受けたのは晶だ。栄子経由で知ったのだろう。自分も同伴出来る時にしてくれと、譲れない条件を出すと、それなら今日の夕方に訪ねる、と龍は言った。
経営コンサルタントというのは、時間の融通が利くらしい。それとも龍が特にそうであるだけか。
空はぐずつき、今にも泣き出しそうな模様だった。晶は瑞穂と自分の朝食と、華夜理のぶんの粥を作り、朝の支度を終えた。
柏手龍が来ることを、晶は華夜理に粥を持って行った際に告げた。
不安そうに今日の空模様のように顔を曇らせる華夜理に、自分も同席することを告げると、華夜理の顔がほっとしたように小さな笑みを浮かべた。
――――そんなに信用して。
自分が華夜理に覆い被さった事実を忘れてはいないだろうに。
座敷に戻ると既に瑞穂も起きて食卓に着いていた。華夜理に話したのと同じ内容を告げる。これには僅かに緊張した。龍が来ることに身構えている自分を、瑞穂には見抜かれるのではないかと思ったからだ。先日、浅葱と浅羽が来た夜から、瑞穂の纏う空気は柔らかみを増したが、舌鋒の鋭さは変わらない。
今も鉄面皮の顔で焼いた鮭の身をほぐしながら、晶に含みのある視線を遣った。
「頑張ってね。騎士様」
晶は思わず苦笑した。
晶が学校から帰る頃には雨は本降りになっていた。花散らしの雨となるだろう。
間宮小路家の門の横手、駐車場になっている広いスペースに、黒塗りのベンツが停まっているのを見て、晶は自分が出遅れたことを悟った。あれはきっと、龍の車だ。龍に出し抜かれた、とも思った。
するとベンツの扉が開いて、中から龍が出てきて傘を差した。見舞いの花束を持っている。
龍は車の中で晶が帰るまで待っていたのだ。
晶は自分の早計を恥じ、龍の思い掛けないフェアな精神を少し見直した。彼は寝込む華夜理に玄関まで来させることの負担や、晶が同伴すると言った条件などを鑑みて車内で晶を待っていたのだ。
雨がザーザーと降っている。
天と地を結ぶ銀線が。その合間を悠々と泳ぐのが龍神とされる。
晶は龍に会釈して近寄った。龍も晶に歩み寄る。
「こんにちは。酷い降りになったね」
「こんにちは。はい。柏手さん、とりあえず家の中にどうぞ」
玄関に入って戸を閉めたところで、雨音は遠ざかり、二人は人心地ついた。
それでも二人共、肩などが濡れていて、晶はタオルを持ってきて一枚を龍に渡し、一枚を自分が使った。
真空の中にいるように、静寂の中、灰色にくすんだ玄関。
ノアの方舟の動物たちはこのような穏やかさと心許なさを感じていたのだろうか、と晶は考える。しん、とした中に龍と二人きり。
「ノアの方舟のようだね」
龍が、自分と同じことを考えていたことに驚き、晶は辛うじて頷いた。
「はい」
「君にとっては桜子も、洪水のようなものだろうか」
「はい?」
「晶君。君があれの我が儘に付き合うのはどうしてだろう。君の本命は別の〝華〟だろう?」
ピカッゴロゴロゴロと雷が鳴る。
龍の顔は晶の角度からは影になって、よく見えない。
ただ、今、自分が弾劾されていることだけは承知していた。
龍にとっても桜子は大切な妹なのだ。あだやおろそかに手出ししてくれるなと、龍は晶に迫っている。
「……桜子さんが魅力的な女性だからですよ」
「…………間宮小路さんにも困ったものだ。うちのじゃじゃ馬をけしかけるとは」
龍は得心出来ないという風情で、しばらく晶を睨みつけていたが、やがて空気を切り換えるように溜息を吐いた。
「華夜理さんの部屋に案内してもらえるかな?」
「はい」
廊下を先導しながら晶は言った。
「柏手さん。今日はご自身のお車でいらしたんですね」
「ああ……。今までは華夜理さんを驚かせたり、怯えさせるのが嫌で控えてたんだ。けれど私は公私であの車しか持たないから。桜子のコンパクトカーを借りる訳にも行かないしね」
そこで龍がくすっと笑う。
「――――いずれ、外出の際にもあのベンツに華夜理を乗せるお積りですか」
「そうだね。彼女が嫌がらなければ」
華夜理の部屋に声を掛けると、華夜理は起きていて返事が返った。
川面と銀の薄、鷺が描かれた襖を開ける。
起き上がろうとした華夜理を、龍が手振りと声で留めた。
「そのままで。華夜理さん。お具合はどうですか」
「はい。朝よりは良いです」
そう答える声は、しかし苦しそうで、熱の高さが偲ばれた。
龍はその答えに労わるように頷いて見せ、アネモネの小さな花束を差し出した。
青、赤、白、赤紫の可憐な花は、在るだけで部屋の空気を華やかにする。
「こんなものしかありませんが。ゼリーか何か、咽喉通りの良さそうな食べ物も持参すれば良かったですね」
「いいえ、嬉しいです。晶……」
心得たように晶が花束を受け取る。
「あとで活けて、持ってくるよ」
龍が二人の遣り取りを傍観したあと、華夜理に非常に適切な距離で語り掛けた。
「改めて、先日はすみませんでした。貴方に乱暴な真似をしてしまいました」
「いえ、もう良いんです」
「アネモネの花言葉はご存じですか?」
「え?いいえ」
「儚い恋、恋の苦しみ、見捨てられた、だそうです。恋する相手に贈るのだと言ったら、花屋がそれで大丈夫かと私に念を押してきましてね。そんなことを言えば商売に差し支えるだろうに、随分と奇特な花屋だ」
「…………」
「ご存じの通り、私は経営コンサルタントです。この職業は意外に験を担ぎます。けれど私はジンクスを打ち破ってでも貴方を獲得したいと思い、あえてこの花を選びました」
ではこの花は龍の覚悟のアネモネなのだ。
華夜理は天鵞絨のような花びらの一枚をそっと指の腹で撫でる。晶がその白い指を見る。可愛らしいブーケにされたアネモネの在り様は、どこか姫君や令嬢を彷彿とさせて、華夜理には相応しく感じられた。
「……柏手さんはお強いのですね」
「強くなければ生きていけない社会です」
「では私は不適合です」
「私が支えます」
「でも、私には……」
華夜理の目がちらりと晶を向いた。
龍もそれに気付く。
「晶君がお好きですか?」
「家族以上に、大切です」
「けれどそれは恋愛ではない」
途端に揺らぐ、華夜理の視線。明言した先程とはまるで違う。
「……はい」
「結構。それが聴けただけで今日は十分です」
龍が初めてはにかむような笑顔を見せた。
晶はその顔を見て、どうしようもなく不穏な心持ちになる自分を持て余した。
またどこかで、雷が落ちた。
世界が白と黒に満ちる。