其ノ陸拾壱
浅葱が止める間もなく、瑞穂が上のスウェットを脱いだ。
下着以外の肌が露わになる。脱いだあと、ゆっくりと舞い降りる黒髪。
右上半身に残る赤い火傷の跡にも。
「浅葱君。これがあたしよ」
なだらかな少女の上半身の曲線。赤い半身は寧ろこの少女を艶めいて見せると浅葱は思った。灼熱の天使の降臨。先程交わした口づけの、名残りを感じる唇を舐める。少しも醜いなどと思わない。この傷痕の為に瑞穂が自分を避けてきたというのなら、その理由においてのみ、赤い肌が憎かった。
それにも増して、赤い肌が愛おしかった。
浅葱は必死で自分を抑えた。
それでも瑞穂は両手を広げ、自分をよく見ろと迫ってくる。投げやりなのではなく、素の自分を見せたいのだ。
浅葱は瑞穂の腕、肩から胸元、脇、臍の横にまで丁寧に口づけを落とした。誠意と愛情を籠めて。その時点で惑乱せずに済ませる為に多大な努力を要した。
浅葱は最後に瑞穂の唇を貪るように奪った。
そして身を離すと、瑞穂に着衣を促した。
「服を着て?糸魚川さん」
「瑞穂と呼んで。浅葱」
「――――瑞穂さん」
「瑞穂」
「瑞穂。……好きだよ」
瑞穂は明確には答えなかった。ただ、柔らかにも熱い波のような気配が彼女から浅葱に押し寄せ、それで浅葱は十分だった。また、瑞穂にもっと触れたいという欲望を堪えるのに先程の百倍は努力が必要だった。
「今日はもう帰ってくれ、浅羽」
「そうやってまた逃げるのか」
「病人がいることを忘れたのか」
浅羽は、はっとしたように苦しそうに呼吸しながら自分たちを見つめる華夜理を見た。病人の枕元で我を忘れて晶と口論したことを恥じ、それを晶に指摘されたことを尚、恥じた。
「華夜理に感謝しろよ」
晶は答えなかった。実際、晶が極限まで追い詰められなかったのは、華夜理が病人であったからだ。自分はそれを盾に浅羽から逃げた。その卑怯さを誰より知るのは晶自身だ。
やがて浅葱が戻ると、浅羽も連れ立って帰って行った。明かり障子を閉めた後には春の夜気の余韻が残った。
春の夜気の余韻。珍しく上気していた浅葱の頬。
浅羽の追い立てるような言葉の数々。
それら全てが晶に前後の境を見失わせていた。
いつかと同じように晶は華夜理の顔の両脇に手をついた。今度は彼女に覆い被さるようにして。
卵型の顔、紅潮した頬、自分を見上げる、熱に潤んだ瞳。黒く芳しい髪の毛。
晶は四つん這いになり、華夜理を自らの檻に閉じ込めたまま、身じろぎ一つせず、胸中で激しく格闘していた。
せめて唇だけでも奪いたい。
その晶の切望は、華夜理の洩らした咳によって打ち消された。
「華夜理。華夜理。苦しいの?」
「うん。何だか熱が上がったみたい」
晶は素早く華夜理の上から退くと、体温計を華夜理に差し出した。
熱はやはり上がっていた。浅羽との口論が良くなかったのかもしれない。
「檸檬ジュースを作ってこようか」
「悪いから良いわ」
「病人が遠慮するんじゃない」
晶は半ば本気で華夜理を叱り、部屋を出た。二人共、先程のことはなかった振りをした。それでいて二人共、先程のことを胸の奥底に刻みつけた。
「また寝込んでるの?あの子」
翌日に訪れたのは招かれざる客だった。晶の母・栄子だ。
夕刻、晶が夕飯の支度に取り掛かろうとしている最中だった。
それだけでも迷惑なのに、栄子は晶に聞き苦しい言葉を並べ立てた。
「軟弱な子ね。お嬢様扱いされてるからすぐ風邪だ何だって寝込むことになるのよ。怠慢の証だわ。これじゃ跡継ぎを生めるかどうかだって解りゃ――――」
「華夜理の悪口を言いに来たんですか、お母さん。僕は夕飯の支度があるのですが」
栄子が取り成すように笑って見せる。
「ねえ、晶。今の内にあの子を頂いてしまいなさいな。柏手さんも桜子さんも、今一頼りになるか解らないし、あの子も晶ならうんと言うでしょう。弱ってるなら今が狙い目じゃない?有無を言わさずに……ね?」
これが実の母の言うことかと思うと、晶は再び栄子に紅茶を浴びせたい気分だった。しかも昨晩は、危うく栄子の言が実行されそうになったのだ。その後ろめたさも手伝い、晶は栄子に、より敵愾心を抱いた。
虚しくもあった。
目の前の母を見る。
今日は藍色の絹のワンピースで、首には雫型の大粒の珊瑚のネックレスを下げている。その対比の鮮やかさの妙。
それらへの気配りと同じくらいの、華夜理や自分への気配りがあったなら。
ジャガード織りの草花の中に座り、平然と倫理に反することを言ってのける栄子を、晶は悲しいと思った。
母に、父に、何事かを期待する情は、華夜理の両親が亡くなった時に捨てた。
あの時、栄子も慎一郎も、華夜理の両親の死を嘆きもせず、ただ遺産相続に固執したのだ。そして晶は華夜理を守る為にこの家に来た。いや、逃げたかったのかもしれない。あの両親のいる実家から。醜いエゴの感情の渦から。
そうして一輪の華の元に来た。
今、華を守る為なら晶は何でもする。
「……その珊瑚、綺麗ですね」
「え?ああ、そうでしょう。これは珊瑚の中でも色が濃くて質が良いのよ」
「それで首を絞めたら、チェーンが切れてしまいますね。でも切れたチェーンから落下する珊瑚も綺麗でしょうね」
「……何を言ってるの、貴方」
夕日が丁度、張り出し窓から入る時間帯だった。
端整な面立ちの晶はにこやかに、ソファーに座っている。
その面立ちの半分は影に隠れている。
影から溶け出すような、我が子から発される殺気に、栄子はぞっとした。
「きょ、今日はこれで帰るわ。晶、言っておいたこと、忘れないようにね」
せめてもの母親としての体面を保とうと、上からの物言いをしながら、栄子は慌ただしく応接間を出て行った。
残された晶は、ぼんやりと張り出し窓の外を見る。そんな彼をシャンデリアの牡鹿が見下ろしている。
嘗て遠い昔。あれを母と慕った時代もあったのだ。
寂寞とした思いに、晶はしばし窓辺に佇んでいた。