其ノ陸
やがて空は深い水色から群青、茜へと色を変える。
晶と夕食を摂った華夜理は風呂場へと向かった。固く結んだ帯をしゅるり、と解く。脱いだ着物を丁寧に畳み、肌襦袢まで脱ぐと少女のほっそりした肢体が露わになる。それは熟れる前、まだ固い水蜜桃の果実に似ている。紅よりは緑の合う姿だった。大人になるまでの猶予があることを、華夜理は惜しんではいない。大人になってしまえば、晶が離れていきそうで怖いのだ。
浴室の戸を開け、湯気の籠る中に踏み込む。
晶を繋ぎ止めるのは、「病弱な従妹の少女」だと華夜理は思っている。もし大人になってしまったら、今の晶の愛情は、魔法が解けたように氷解するとまでは行かなくても、もっと乾いたものになるだろう。
檜の桶に湯を汲み、ばしゃりと掛かる。
浴槽は石造りで、所々に貝の輝きが光る。その為ばかりでもあるまいが、華夜理も晶も、海辺などに行く機会があれば必ずと言って良い程、貝を拾って帰り、浴槽の縁に置くのが習慣となっていた。お蔭で今では浴槽のぐるりを貝が囲んでいる。髪と身体を洗った華夜理は浴槽に浸かり、目前の鮑の殻に目を遣る。流石にこれは拾った物ではない。晶がどこかで買い求めてきた物だ。華夜理は一つ年上の晶が大人びていることは認めるが、まだ彼の心は少年なのだと看破している。でなければ、こんな貝を手に入れはしないだろうし、何より晶の濃やかな心遣いは、華夜理を喪うことへの恐れからその大部分が来ている。
(可哀そうな晶…。でも、そんな晶だから傍にいて欲しいと願う、私は贅沢なのかしら?)
上を見上げれば丸い照明が見える。この家に総じて言えることだが、天井が高い。照明は鈴蘭を模しているようでもあるが、華夜理にはよく解らない。よく解らなくても美しいことだけは知れる。それさえ知っていれば十分ではないだろうか。
華夜理の肌理細かな腕が湯をぱしゃん、と叩く。
鮑の虹色に光る内面を見つめ、まるで晶のようだと思う。
(晶は心が綺麗なの。内面が…。でもそれは、表面にまで現れているわ)
光る物を狙う烏のように、いつか誰かが晶を掠め盗っていったらどうしようかと華夜理は恐れる。尤も易々と掠め盗られるような晶ではないが。
思案している内にのぼせてきた華夜理は、浴槽から上がり、肌にびっしりとついた水滴を丁寧にタオルで拭うと、浴衣を着た。
深夜。星さえも遠慮がちに輝く時間帯。
晶は水音を聴いた気がして目を開けた。もしやと思い、窓を開けて庭を見下ろす。彼の部屋は二階にあり、下を見下ろせば丁度、池を臨むことが出来る。
そこには浴衣姿の少女が立ち、水遊びをしていた。
さっ、と顔色を変えた晶は、パジャマの上にジャケットを羽織るのももどかしく、階下へと急いだ。
花のように咲く月光の下。
華のような少女が水と戯れていた。
それは退廃的な美しさだ。
危機感すら忘れて、晶はその美に束の間、酔った。
それから名を呼ぶ。
「華夜理!」
華夜理の澄んだ、童女のような瞳が晶を捉えるとにこりと笑った。
「晶。お父さんと、お母さんは、まだ帰らないのかしら?」
ぐ、と言葉に詰まる晶は取り急ぎ、自分が着ていたジャケットを華夜理に羽織らせる。
「お母さんにね、約束したのよ。レースのハンカチをお土産に買ってきてねって」
それなのにまだ帰らないの、おかしいわね、と呟く華夜理は完全に幼児退行していた。
彼女は時々、こうなるのだ。幼くして交通事故で死んだ両親を待ち続ける小さな華夜理が少女の身体の内にいる。晶にはいつもぴんと背筋を伸ばした華夜理が背を丸めて両膝を抱え込んでいる姿が目に見えるようだった。
思わず、その半分濡れてしまった身体を抱き締める。
「晶?」
「……レースのハンカチなら僕が買ってあげる。真っ白くて、綺麗な」
「本当?」
「ああ、本当だ」
この遣り取りがこれまで何度繰り返されたことか。
事実、晶は華夜理にレースのハンカチを贈ったのだ。これまでに、何枚も。
けれどそれが華夜理の求めるものではないことは、もう承知していた。
細い従妹の身体をますます強く抱き締める。
夜の寒気もこうしていれば気にならなかった。
華夜理はもう二度と得られないものを求めているのだ。昼間は表層の意識に抑えられた深層部が、夜になると顔を出す。痛ましくも、顔を出す。
晶は彼女を精神科に連れて行くことを躊躇った。そんなことをしても無駄な気がしたし、何より華夜理が奇異の目で見られることが苦痛だった。
神聖を侵される気がして。この拘りが、必ずしも華夜理の為にはならないと知っていながら。
華夜理は泣いていた。
笑みながら両の目から涙を流していた。
「華夜理。華夜理」
こうなるともう、晶までが華夜理の意識の混濁に引き摺られてしまいそうになる。
「晶はいなくならないわよね?」
不意に冴えた声で華夜理が問う。けれど目を見ればまだその心は夢想の内にあると判る。
「いなくならないよ……」
どんっ、と華夜理が拳を晶の胸に打ちつける。
「絶対によ。ずっとよ。傍にいて」
突然の少女の激しさにも晶は動じない。
「ずっと傍にいるよ」
だから、と晶は続ける。
月下に咲く少女に。
「だから華夜理も生きていてくれ……」
月下の華はすとんと眠りに落ち、晶の求める答えは得られなかった。