其ノ伍拾捌
日曜日。
玄関で、迎えに来た桜子に、今日は外出出来ないと晶が告げると、彼女は明らかに不興の顔つきになった。
「どうして?今更、華夜理さんに遠慮してるの?」
「華夜理の熱が高いんです。傍についていてやりたい」
桜子の頭に、華夜理の枕元に侍る晶の姿が浮かぶ。
きっとこの少年は、これまでもそんな風に生きてきたのだ。
幼馴染の従妹の少女を、何よりも大切にして。
二人の間に築き上げられた歴史は、桜子には太刀打ち出来ない氷の壁のようで。
冷たくて分厚い。
その向こうにいる二人の少年少女。二人の世界。自分は闖入者なのだと知らしめられる。
「そう。解ったわ。お大事にと華夜理さんに伝えてね」
にこやかに言うのが桜子の精一杯の矜持だった。
黒い花器に活けられた桜が目に入る。
いっそ手折ってしまいたいと桜子は思った。
華夜理の部屋に戻った晶に、寝床から顔だけを出した華夜理が声を掛ける。
「晶。私のことは良いから行って?」
「そういう訳には行かないよ」
「糸魚川さんもいるから」
「糸魚川さんは看病までしてくれないだろう」
「……桜子さん、怒ってなかった?」
「なかったよ。お大事にって」
華夜理は安堵と少しばかりの落胆混じりの溜息を吐く。
ここで怒るような女性なら、その狭量を晶に相応しくないと思うことも出来るのに。
晶は桜子の存在など僅かも意に介していない様子で、華夜理の傍らで文庫本を開き、読み始めた。
当たり前のように晶がいる。
当たり前のように晶が桜子より自分を優先してくれた。
その事実に華夜理は泣きたい程の歓喜を覚えた。
「……私も何か読みたいわ」
「熱が高いから駄目だよ。どうしてもと言うなら、僕が読んであげる」
檸檬ジュースに入った蜂蜜のように自分を甘やかす。
「じゃあ、『銀河鉄道の夜』を読んで」
「相変わらずお気に入りだね。その内、文章まで憶えそうだ」
「『ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ』」
華夜理が暗唱すると、晶の目が丸くなった。
華夜理が微かに笑う。
「その本の中でも、『銀河鉄道の夜』の台詞の幾つかは憶えてるの。『けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばんしあわせなんだねえ』これもカムパネルラの台詞よ。天上に召される子は心がとても清らかなのね。言うことが違うわ」
言いながら華夜理は睡魔に襲われたようだった。長く喋って疲れたのだろう。
「ねえ、晶。私、晶にとって本当に良いことをするから……。私と、晶が幸せなように……」
そこまで言うと華夜理は眠ってしまった。
晶は眠る華夜理の顔を見て、華夜理の、或いはカムパネルラの台詞を反芻した。
華夜理は方法は過てど、晶の為を想っての言動は一貫している。
なのに自分と来たらどうだろう。
華夜理に告白する勇気もなく、けれど彼女の心を独占したくて桜子と付き合っている。
二人の幸せを祈る華夜理に対して、晶は自分のエゴが酷く醜く感じられた。