其ノ伍拾漆
夢の中、華夜理が泣く声が聴こえる。
〝どうしたの、華夜理〟
〝浅羽がお帽子取っちゃったの〟
〝しょうがない奴だな、あいつは。ごめんね、華夜理〟
浅葱が弟の悪戯を華夜理に謝る。
小さな時から、何かとやらかす浅羽の行為を詫びるのは、浅葱の役目だった。
子供ながら理知的で大人しい浅葱に対して、浅羽は周囲を引っ掻き回すようなことをよく仕出かした。
〝僕が帽子を取り返してあげるよ〟
〝本当?〟
〝うん〟
約束すると華夜理は晶に花のような笑顔を見せた。まだ涙の光る頬が笑みの形に動く。
夏の暑い日だった。
自宅を両親と共に訪れた浅葱と浅羽、それからこの頃から一人で華夜理に会いに来ていた晶は四人揃って庭で遊んでいた。華夜理は日射病になるといけないからと、母親に麦わら帽子を被せられていた。黒いリボンのついたそれは可憐な華夜理によく似あい、華夜理は白いワンピースの裾を閃かせながら笑い声を上げ、晶たちと遊んでいた。
それをいつの間にか浅羽が拝借したのだ。
そして浅羽はどこかに遁走した。
晶は華夜理の大事な帽子を取り戻すのは、自分の使命だと信じていた。
果たして浅羽は、渡り廊下を挟んで池と対になる蔵の影にいた。
華夜理の帽子を大事そうに抱えて立っている。
その光景を見た時の気持ちが今でも忘れられない。
白い華夜理。
純粋無垢な僕の華。僕だけの華。
けれど僕以外に君を手折るとすれば、それはきっと。
(それはきっと浅羽なんだろう……)
朝日の降り注ぐ台所で、晶は華夜理の為の粥を作っていた。火を通した鶏肉と葱を刻んだ物を入れ、蓋をする。
昨日の内から取っておいた椎茸と昆布の出汁でキャベツと人参の味噌汁を作り、ししゃもを焼く。ししゃもを焼いている間に法蓮草のお浸しを作る。それから湯豆腐を作れば今日の朝食の完成だ。
檸檬を絞り、ポットから沸かした湯を注いで蜂蜜を混ぜ、出来た檸檬ジュースを、粥と一緒に華夜理の部屋まで持って行った。
こんこん、と襖を叩く。
「華夜理?起きてる?」
本来ならもう、とうに起き出している筈の時間帯だ。
だが返事がない。晶は少し考えた末、襖を開けた。
華夜理は眠っていた。やはり熱があるのだろう、頬と唇が赤い。
晶は盆を華夜理の寝床の横に置くと、しばらく眠る華夜理を眺めていた。
眠る華夜理は起きている時とはまた違った趣で妙の美を見せる。
一対の桜貝は、今は桜色よりやや濃く染まっている。
その染まり様は扇情的と晶の目に映った。
誘われているような気がした。
セイレーンの歌声を聴いた船乗りのように。
晶は華夜理の顔の横に手を突くと、ゆっくりと顔を近づけた。
そこで、華夜理の目がぱちりと開いた。
晶は苦笑してしまった。
眠れる森の姫は口づけを受けてから目覚めるのが決まりではないのか。
けれど心のどこかで安堵もしていた。
卑怯な盗人にならずに済んだ。
「粥を持ってきたよ。檸檬ジュースも。食欲はどう?」
華夜理は弱った顔をして細い声で答える。
「あんまりない……」
「食べられるだけで良いから」
華夜理は、ついさっき、晶の顔が自分の真上にあった理由を考えていた。
(どうして?)
そして甲斐甲斐しく世話を焼く晶に疑問を抱く。
(どうして?)
桜子と付き合うことにした筈なのに。
瑞穂とキスしたことを華夜理には関係ないと冷たく言ったのに。
どうして未だに優しく接してくるのか。
これでは生殺しではないか。
華夜理の部屋の天井は格子天井になっていて、その格子天井に届くくらいに水が満ちたと華夜理は感じる。その水は透明できらきらとして、けれどどこか儚い予感を思わせるものだった。
ちらり、ちらり、と泳ぐ金魚。
春紫菀が水中花のよう。
青く赤く水は煌めき。
(晶。晶は一体どうしたいの)
水の中のように晶の声がくぐもって聴こえる。
「今度の日曜日、桜子さんにデートに誘われたんだけど」
「……うん」
「華夜理が嫌なら行かないよ」
ほら、こんな風に。
優しいかと思えば酷薄に華夜理を試すようなことを言う。答えは解り切っているのに。けれど華夜理の心情のありのままを打ち明けることは、晶の足枷になる。
「私は晶が行きたいなら、それで良いと思う」
晶の顔色が変わる。冷たい憤りに灼熱する。
そして華夜理の答えは、いつかの晶と酷似していた。
〝私、まだ結婚なんて嫌だわ。晶だって嫌でしょう?〟
〝僕は華夜理の意志を尊重するよ〟
その答えを受けて泣いたことを今の華夜理は忘れている。
「――――――よく、解ったよ」
晶の声色を聴いて、自分の答えが間違っていたのではと華夜理は思った。
けれど晶は解放されなければならない。
それだけは譲れない、華夜理の一念だったのだ。