其ノ伍拾陸
翌朝の朝食の席は重い空気が漂っていた。
瑞穂は鰺の干物に添えた大根おろし、それに醤油を垂らした物をつつきながらあからさまな溜息を吐いた。
晶は何食わぬ顔で、華夜理はぼおっとして味噌汁を飲んでいる。華夜理の食事は余り進んでいない。
「空気が重いわ」
ついに瑞穂が言葉に出して指摘した。
彼女は晶が柏手桜子と付き合うことにした事実を、浅葱経由で知っていた。
昨日の夜、晶の部屋を訪れたあと、浅葱が瑞穂の部屋に来たのだ。
〝晶にしては頭の悪いことをしてるよ。しばらくこの家が居心地悪くなるだろうけど、勘弁してやって〟
そう、瑞穂に告げたのだ。
その話を聴いた時、瑞穂は晶も一介の男子に過ぎないのだなと意外に思った。華夜理が泣くかもしれないとも。しかしそれを晶は望んでいるらしいのだ。
(屈折した愛情だわ)
お蔭で自分はお通夜のような雰囲気の中で朝食を食べなければならない。
全てが晶のせいだと思えば、晶が恨めしくなった。
果たしてその晶は。
「そう?」
しれっと答えただけで、何の弁解もしない。華夜理に至っては聴こえてもいないらしい。
瑞穂は苛々とした。
何なんだ、この二人は。
どうして自分がこんなに振り回されなければならない。
しかしその思いは、彼女の鉄面皮の下に隠れて露わになることはない。
傍から見ればいつも通り、陰鬱な気配を纏った美少女だ。
浅葱とは晶の話以外をしなかった。
それが瑞穂には拍子抜けであり、一種、物足りなさを感じた自分を恥じもした。
瑞穂は二度目の溜息を吐いた。
座敷の棚の上に置かれた時計は真鍮製の白銀色で、正方形をしている。
その長針と短針を睨むように見て、瑞穂は箸を置いた。
「ごちそうさま。じゃあ私、もう出るから」
「あ、待って。糸魚川さん。お見送りするわ」
瑞穂は遠目には小花模様にも見える蜘蛛絞りが施された水色の着物に、濃紺のアンティークの帯を締め、胡桃色の帯揚げと、当たりの柔らかい丸ぐけ(丸い棒状にして芯に真綿を入れた物)の帯締めを合わせた華夜理を見た。
頭の天辺から足の爪先まで。
生粋のお嬢様然とした華夜理だが、瑞穂は羨ましいとは思わない。この家に住まう内に、誰が恵まれているかなど、外側からでは解らないと考えるようになったのだ。
現に目の前の少女の痛々しさときたら。
頼みの従兄弟にも牙を剥かれ、ぼろぼろではないか。
「見送りは良いわ。それより貴方、顔色が良くないわよ。熱があるのならちゃんと寝てなさい」
瑞穂はわざと晶に聴こえるように言って、一人でさっさと座敷を出た。
晶と二人で残された華夜理は所在無げに食事をのろのろと再開した。
そんな華夜理を晶が凝視している。
「本当に熱があるんじゃない?」
「え?」
「ほら」
そう言って額に触れようとした晶の手を、華夜理が反射的に振り払った。
「あ……」
晶よりも、華夜理のほうが自分のしたことに驚いていた。
「だ、大丈夫。食器、置いておいてね。洗うから。お洗濯も、しておくから」
「…………」
この段になっても尚、昏い喜びを覚えている自分を晶は自覚していた。
今の華夜理は誰より自分の為に心惑わせ、傷つき憔悴している。
華夜理の中枢を占めているという、この途方もない満足感。
華夜理は柘榴を食べているのだ。
晶は華夜理にこの上もなく優しく笑いかけた。
夜になり、やはり熱が出た華夜理は晶が作った粥を食べて大人しく床に就いた。
ほとほと、と明かり障子が叩かれる音を風邪で過敏になった耳が聴き分けて、華夜理は身を引き摺るようにして明かり障子を開ける。
立っていたのは浅羽だった。
「よ」
今、浅羽に逢いたくなかった。
今、浅羽に逢いたかった。
二つの相反する想いが華夜理の中で渦を巻くようにして在った。
部屋に入った浅羽は華夜理の様子を見て開口一番、言った。
「風邪ひいたんだな。寝てろ。宮沢賢治でも何でも読んでやるから」
そのぶっきらぼうな優しさが、華夜理の心に慈雨のように沁みた。
泣き出した華夜理の背を、浅羽が優しくさする。
「浅葱から聴いた。……辛かったな。晶はな、今ちょっと、とち狂ってんだよ。お前のことが好きなのは変わらない筈だ。いや、好きだからこそ、かな」
「そんなことない。桜子さんは、綺麗な人だったもの。浅羽はいっつも、そんなことないことばかり言う」
「俺はいつだって正直だよ」
その時、襖の向こうから晶の声が聴こえた。
「華夜理。起きてる?檸檬ジュースを作ったから」
「晶」
「開けるよ」
襖を開けた晶が目にしたのは、浅羽の胸に寄り添うように座る華夜理だった。晶の顔が硬直する。
「……どうやら邪魔したみたいだね」
そういうことではないのだ、と言おうとした華夜理に先んじて浅羽が不敵な声で答える。
「ああ、邪魔された。お前はそれ置いて、さっさと行けよ」
浅羽は普段から言動が荒っぽいが、人の誠意を無碍にすることはない。その浅羽が、今は晶に対してつっぱねるような物言いをしている。
晶は黙って檸檬ジュースの載った盆を部屋の畳に置くと、襖を閉めて出て行った。
再び泣き始めた華夜理を、浅羽が懐にくるむようにする。
「晶に誤解されたわ」
「良いさ。少しくらい妬かせとけ。あいつには良い薬だ」
涙で霞む華夜理の目に、備前焼に活けた春紫菀が映る。
春紫菀は花が終わると綿毛になるのだ。
綿毛は風に乗って飛ばされる。
花言葉は「追想の愛」。
自分も風に乗って飛んで行きたいと華夜理は思う。
悲しみのないところへ。
けれど悲しみのないところには、晶もまたいないのだ。
(追想の……)