其ノ伍拾伍
その晩は浅葱が訪ねてきた。
悄然とした華夜理の様子に何があったのかと訊く。
そこで桜子と晶の一件を聴いた浅葱は、彼には珍しく険しい顔になった。
今日はまず瑞穂と話したかったのだが、浅葱は急遽、予定変更した。
「晶と話してくるよ」
「晶を責めないでね」
「……それは事と次第によるかな」
華夜理はそう答えた従兄弟を見送ると、青磁の香炉に白檀の香を焚いた。
何かしていないと気持ちが千々に乱れて晶と桜子のことばかり考えてしまう。
香の香りに紛らわせて、涙を遠くへ押し遣るのだ。浅葱が来る前も涙の海だった。きっと目元は腫れているだろう。それが浅葱の怒り――――恐らくは――――を、助長させなければ良いが。晶が浅葱に責められると華夜理も辛い。
「晶。入るよ。良いかい?」
「浅葱か。どうぞ」
二階の晶の部屋を訪ねた浅葱を、晶は余り驚かずに受け入れた。
襖を開けた浅葱は、明日の予習勉強途中だったと思しき晶の様子に、腹立ちが募った。
「柏手さんの妹と付き合うことにしたんだって?」
「ああ」
「なぜ?」
「なぜ?男女が付き合うことに理由が要るかい?」
床に座布団を出し、手振りで座るように促して自分もその向いに座ってから、晶は涼しい顔で言ってのけた。
天井の電気に、どこからか入り込んだ羽虫が飛び違い時々、ぶつかる音を立てている。もうそんな季節なのだ。
いずれ光に焼かれるであろう羽虫。
美しかろうと、醜かろうと、熱の傍に在ればそれは必然なのだ。
晶は光から逃げたのだ、と浅葱は断じた。
「この場合は、要るね」
「なぜ?」
今度は晶が問う。
「君が好きなのは華夜理だからだ」
「確信を以て言うんだね」
「君自身が自覚するまで、僕も確信を持てなかったよ。けど、そうだろう?なのに別の女性と付き合おうとする。これじゃ糸魚川さんのしたことと変わらないじゃないか」
その時、ついに光に耐え切れなくなった羽虫の一匹が二人の間に落ちた。
ぽとりと。
「大人の女性と付き合ってみるのも良いかと思っただけだよ」
「僕が浅羽なら君を殴っているかもしれない」
くす、と晶が笑う。
「浅羽はやっぱり華夜理が好きなの?」
「だと思うよ。あいつは天邪鬼だし、隠してる積りだろうけど」
「浅葱……」
晶が浅葱の名を呼んで、しばらくの時間が経過した。浅葱が痺れを切らしそうになった頃、晶が続く言葉を紡いだ。
「華夜理は、僕のことを従兄弟以上に見てるだろうか」
そう言った時の晶はそれまでの超然とした態度と打って変わって、どこか自信なさげな迷子のようだった。
「自覚があるかどうかは解らないけど、僕にはそう思えるよ」
「そう……。なら、華夜理は今頃、僕のことを想って泣いているんだろうな」
その台詞の響きは一括りで形容出来るものではなかった。
甘く苦く深く苦しく、喜びと嘆きに満ちて。
あらゆる感情の凝りだった。
浅葱は晶の顔を寂しげに見つめて言った。
「君に自傷癖があるとは知らなかったよ、晶」
落ちた羽虫は、まだ翅を微かにはためかせていた。




