其ノ伍拾肆
植物園の開園時間に近づいたので、桜子と晶はカフェを出た。
コンパクトカーを植物園の駐車場に停め、園に入る為の券売機に晶が当然のように小銭を入れ、二枚の券の一枚を桜子に差し出しだ。桜子はにっこり笑ってそれを受け取る。
広大な植物園の入り口近くには噴水が設置され、幾重にも水の輪が出来るような作りになっている。小さな虹が儚くその姿を浮かべていた。
園内の桜は今が丁度、見頃だった。
ひらりひらりと舞い遊ぶ花びら。
晶の髪にも、桜子の髪にもそれらは舞い降りた。
互いについた花びらを取り合っていると、桜子からは甘い匂いがした。
華夜理が焚く香とは違う、どこか都会的な厳しさを含んだ甘さ。
花びらを取り合う時、桜子が顔を近づけたが、晶は何もしなかった。
お互い、何もなかったかのように振る舞ったが、桜子の落胆は明らかだった。
「うちの兄妹の名前、派手でしょ」
「そうですね」
「龍に、桜。一歩間違えれば極道みたいよね。まあ、あの母がつけたんだから、センスがいまいちなのは仕方ないけど」
二人は高い樹木に囲まれた遊歩道を歩きながら他愛ない話をした。
晶は口を開けば華夜理のことを話しそうになるので、自然、慎重に話題を選ぶこととなった。またその事実は、自分が如何に華夜理中心の生活を送っているかを自覚させた。
桜子は薔薇園を観たがった。濃厚な薔薇の香りが充満する中、二人は歩いた。
春は一季咲きの薔薇と四季咲きの薔薇が咲く、薔薇園が最も華やぐ季節である。
「壮観ね」
「もっと気温が上がればより豪勢になるでしょうね」
そう言って、薔薇が茂るアーチを潜る。蔓薔薇が花を咲かせるのはほぼ春だけだ。
「薔薇には色んな品種名があるでしょう」
「『プリンセス・モナコ』とか?」
「そうそう、よく知ってるわね。正式には『プリンセス シャルルレーヌ ドゥ モナコ』」
「モナコ国王妃になった女優のグレース・ケリーに捧げられた花として有名ですよ」
「それにしても高校生の男子は普通、知らないわよ。私は薔薇も好きだけど、薔薇につけられたロマンチックな品種名も好きなの。『アンネの薔薇』は少し悲しいけど、それでもやっぱり綺麗だわ」
桜子は嬉しそうだった。
――――こんな風に溌剌と。
陽の光を享受する美しい女性がいる一方で、華夜理にはそれが難しい。
最近では幼児退行の兆しが鳴りを潜めているものの、いつ再発するかは誰にも解らないのだ。
晶は桜子に知られぬよう、愁眉になった。
積りだった。
実際は桜子は、それまでとは打って変わって冷たい目で晶を見ていた。
薔薇のアーチを潜り抜けた出口。天が薔薇から青に切り替わった。
「そんなに華夜理さんが気になる?」
「――――いいえ」
「じゃあ、抱いて」
「え?」
「キスはまだ抵抗があるんでしょう?ならせめて、抱き締めて。貴方の温度を感じさせてよ」
平日の朝の間ということもあり、周囲に人目はない。
晶は腕を伸ばし、桜子を抱き締めた。
桜子は晶の胸に顔を埋めるようにして縋りついた。
甘い風がさあっと吹き抜けた。
昼過ぎ、車が止まる音に華夜理は敏感に気付いた。
玄関に駆けて行く。
晶は華夜理を見て笑いかけた。
「ただいま」
「……お帰りなさい」
「昼ご飯は食べた?」
「用意されてたから」
「そう」
「晶は?」
訊いてから華夜理は愚問だと思った。男女の二人連れが昼過ぎまで外にいたのなら、外食したのが道理ではないか。
案の定、晶が答えた。
「桜子さんと食べたよ」
「そう……」
そのまま晶は立ち尽くす華夜理を置いて二階の自室に向かった。
すれ違う瞬間、華夜理の鼻腔を甘い匂いがくすぐった。それはこれまで嗅いだことのないもので。
桜子の香水であろうと察しがついた。
玄関の桜がはら、と舞う。
桜の名を冠した女性の出現に、華夜理の頬にも涙が舞った。