其ノ伍拾参
桜子は華夜理の去ったほうを見て、入念に口紅の塗られた発色の明るい唇を動かした。
「綺麗な子ね。兄さんが惹かれる気持ちも解る。……どこか苛めたくなる感じ」
ね、と桜子は晶に同意を求めた。
「君もそう思わない?泣かせて、悲しむところを見てみたくなるようなお嬢様だわ」
「僕は華夜理を泣かせたいとは思わない」
「嘘よ。男は建前ばっかり。彼女が好きなの?」
「…………」
「ねえ、だったら私と付き合いなさいよ。あの綺麗なお嬢さんが貴方の為に嘆くのよ。それって素敵なことじゃない?」
「何を」
莫迦なことを。
そう言おうとして、晶は言えなかった。
華夜理の白い頬に涙が伝う。自分の為に。
華夜理が憂い悲しむ。自分の為に。
あの純粋な少女の心を支配する―――――他ならぬ自分が。
晶の背中にぞくぞくとする快感が奔った。
事故のあと、負傷した晶を想い傷ついた華夜理を美しいと思った時に似ている。
あの時はそんな自分に吐き気がしたものだが。
瑞穂とキスした件でさえ、動揺していた華夜理だ。例え自分への恋ゆえのものでなかったとしても、自分が桜子と付き合うとすればその困惑、悲しみは必至だろう。
晶は床の間めいた空間を彩る桜の枝を見る。
少し前まで梅や万作、馬酔木などを飾っていたのが、この陽気で桜に取って代わられた。
黒い長方形の焼締めの花器に細い枝振りの桜が一本、飾られている様は潔く、静けさの中にも尊ぶべき美を感じさせた。
まるで華夜理のようだと思い、枯れて処分された馬酔木を思いを馳せる。
馬酔木に潜むような毒が、今まさに晶自身の内側から生成され湧き出ていた。
(華夜理)
「決心が決まった顔ね」
桜子が笑う。
彼女は最初から、自分の勝利を確信していたのだ。
華夜理が部屋で晶たちの遣り取りを気に掛けながら、和綴じの百人一首の本をめくっていた。
先日から恋の歌がやたらと目につく。
「華夜理?」
「晶?桜子さんは帰られたの?」
襖の向こうからの晶の声に、無邪気に応じる。
一拍の沈黙のあと、晶が言った。
「僕は今から桜子さんと出掛けてくるから」
鈍器で頭を殴られたような衝撃が華夜理を襲う。
晶は桜子との交際を決めたのだ。
「……そう。行ってらっしゃい」
華夜理は、声が震えそうになるのを抑えるのに必死だった。
だから、どうして晶が襖を開けて会話しないかにも思い至らなかった。
そして邪心と恋慕を抱えた晶は、桜子が運転する黄色いコンパクトカーに乗り込む。桜子は間宮小路邸の前の道路脇に車を停めていた。脚が疲れたと言ったのは、家に上り込む為の方便だったのだ。
「どこに行く?植物園には行きたいんだけど、この時間帯だとまだ空いてないのよね」
「ファミレスででも時間を潰しますか」
桜子が眉をひそめる。
「安っぽい味のコーヒーなんか真っ平だわ。良いわ、私の知ってるカフェならもう営業してる筈だから、そこに行きましょう」
そう言って桜子は車を発進させた。
(さあ、もう取り返しがつかないぞ)
エンジン音を聴きながら、晶は思う。
華夜理の部屋から玄関先を見ることは出来ない。
だから華夜理は車のエンジン音だけを頼りに晶たちの動向を知った。
(もう、取り返しがつかない……)
晶が思ったのと同じことを華夜理は思う。
瑞穂の時とは違う。晶は大人の女性と交際することに決めたのだ。
「みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに」
陸奥の信夫の里の、摺衣の乱れ模様のような私の心は、元はと言えば誰でもない貴方のせいで乱れそめてしまったのに。
そんな意味の恋歌を口ずさむ。
華夜理が晶に抱く想いは恋ではないかもしれないが、晶の一挙手一投足に心が動かされるのは確かだ。
掻き乱されて。
乱れそめにし。
華夜理は憂いの濃い溜息を一つ吐くと、食器洗いの続きをする為、台所へと向かった。
桜子が案内したカフェは、出社前のOLたちなどで賑わっていた。
注文はレジでして、番号札が手渡され、番号を呼ばれたら注文した品を受け取りに行く。
奥まったところのテーブルに陣取った桜子は、機嫌が良さそうではなかった。
「失敗したわね。貴方を連れ出すなら早朝だと思って来たんだけど、この店がこんなに混んでるとは思わなかったわ」
晶は別段、構わなかった。
ブラックコーヒーを飲みながら、鷹揚に構えている。内装、色調からして女性客を主なターゲットとしているらしい店だが、稀に晶のような男性もいた。
桜子はMサイズのカフェラテを飲みながら、ドーナツとアップルパイも食べている。晶の視線に気付き肩を竦めてから言い訳のように言う。
「朝を食べる暇がなかったのよ」
「そんなに急いでうちに来る必要があったんですか?」
「知りたい?」
桜子がカフェラテのカップをソーサーにカチャリと置いて尋ねる。
「答えはもちろん、イエスよ。お宅の生活サイクルはあらかた兄さんに聴いたの。それで、晶君を急襲するなら早朝が一番だと思った訳。正しかったでしょう?」
てらいなく笑う桜子を見ていると、本当に自分たちが仲睦まじい恋人同士であるかのような錯覚に陥りそうになる。
「良いのよ、それでも」
「え?」
晶の心の声を読んだかのようなタイミングでの桜子の相槌に、晶は思わず問い返す。
「今、私と恋人同士になったような気分になったんでしょ?そういう錯覚から本当の恋に発展するの」
「――――僕に拘る理由が解らない。まだ高校生の僕は、貴方から見たら子供でしょう。母の妄言に左右されるような人じゃない筈だ」
桜子は、棒状アップルパイをさくりさくりと齧り、カフェラテを一口飲んで、晶の顔を見据えた。
「龍兄さんってね。女性に心を開かないのよ。聴いてるかしら。うちの母親の好色振り」
「いえ」
「それはもう、とっかえひっかえ。今の義父になってようやく落ち着いたけど、それまでは酷いものだったわ。兄さん、イケメンでしょ?モテるのにすっかり女性を近寄らせなくなって。そんな兄さんが、本気で熱を上げている少女がいるって聴いた時には驚いたわよ。その少女が従兄弟と暮らしていて、二人の仲を疑っているって聴いた時にもね」
「要するにただの好奇心ですか?」
「半分は。もう半分は、本気で君が気に入ったから。私と並んで歩いて遜色ない男って、結構少ないのよ」
鼻持ちならない台詞だが、桜子があっけらかんとして言うと嫌味に聴こえないから不思議だ。
実際、店内で晶と桜子は人目を惹くカップルとして映っていた。
図らずも青と白のストライプのシャツに生成り色のミニスカートの桜子に対して、晶はサックスブルーのボタンダウンシャツと白いジーンズを穿いていた。
似合いの二人として衆目を集めていたことに、晶は遅まきながら気付いた。
そして桜子と華夜理を比較している自分にも気付いていた。
華夜理はこんな風には喋らない。
綺麗に塗られた唇の、健康的な発色も華夜理の桜色の唇とは趣が異なる。
華夜理はこんな店には馴染まない。
華夜理は――――――。
「今、華夜理さんのことを考えてるでしょう」
長い美脚を組み替えながら、桜子が鼻白んだ顔つきで言った。
「はい」
「正直なのね。憎たらしい。良いわ。その内、私に夢中にさせてみせる。華夜理さんが龍兄さんを虜にしたように」
それは「cry for the moon」だ、と晶は密かに思った。