其ノ伍拾弐
明日から晶が復学するという日の朝方。
瑞穂は学校に行き、華夜理は食器を洗って、晶は手持無沙汰にテレビを観ていた。もう脚は良くなったのだから、家事の一切を自分の手に委ねるよう晶が華夜理に言ったのだが、家事に慣れておきたい、と華夜理が譲らなかったのだ。万事、自分の流儀でないと気が済まない晶だから少しずつやり方を教えて、と華夜理に乞われては、晶も嫌とは言えなかった。
また皿でも割らねば良いがと思いながら、晶がテレビのワイドショーを、欠伸を堪えながら見ていると、呼び鈴が鳴らされた。
応対に出た晶の目の前にいたのは、若いすらりとした体型の女性だった。
晶よりやや背が低く、身体の優美な曲線を強調するような青と白のストライプのブラウスにぴったりした生成りのミニスカートを合わせている。靴は赤いエナメルパンプス。長い髪は栗色に染めて、さらりと流している。
顔、特に目元に誰かの面影があった。
「どちら様ですか?」
だが相手の女性は晶の問いかけに答えず、じろじろと晶を検分した。その時間はやけに長く感じられた。
その後、彼女はにこっと笑った。
それは教師が生徒に及第点を与える時の笑顔に似ていた。
「初めまして。私、柏手桜子と言います。柏手龍の妹よ。大学二年」
「……柏手さんの妹さんがうちに何の用ですか」
「間宮小路のおば様に泣きつかれてね?息子が大事な縁談の邪魔をするから、それを止めてくれないかって。まあ、要するに、私を貴方に宛がってしまえということよ。乱暴な話」
言って桜子は肩を竦める。
「乱暴な話と思うならお帰りください。僕にとっても迷惑だ」
「龍兄さんはここのお嬢様が気に入ったんでしょう?私も、貴方が気に入ったわ。顔も悪くないし、お莫迦じゃなさそうだし、姿勢が綺麗だし」
晶はげんなりした。
栄子はこの家をどこまで掻き回せば気が済むのだ。
「僕には貴方の相手をする積りはないので」
ここは敢えて冷淡な、突き放すような口調をとる。
桜子は一瞬、鼻白んだ顔をしたが、次にはふふん、と笑った。
「ミス・キャンパスにまでなった私を振るなんて、良い度胸ね。とりあえず上がらせてくれないかしら?脚が疲れてるの」
「お引き取りください」
「晶?どうしたの。お客様、どなた?」
華夜理が折悪しく出てくる。
「貴方がお嬢様?」
華夜理を見て、桜子が喜色を浮かべる。獲物を狙う狩人にも似ている。
その視線の異様さに、華夜理が床の間めいた空間の横で脚を止める。
今日の華夜理は黒っぽい琉球絣にオレンジ系グラデーションの西陣織名古屋帯を締め、帯揚げは赤い飛び絞り、帯締めは明るい黄色を選んだ出で立ちだ。
「素敵なお着物ね。華夜理、さん?」
「……ありがとうございます。あの、貴方は」
渋い着物の立ち姿は、いかにも垢抜けたファッションと比較すると見ようによってはもたついて見える。桜子の賛辞は、勝ち得た者の宣言でもあった。
「柏手桜子。柏手龍の妹よ」
「――――どうしてうちに」
「晶君に逢いに。お付き合いを申込む積りよ」
桜子が爽やかに告げた。
晶はずっと迷惑そうな顔をしている。
だが華夜理には、大人びた晶と桜子はお似合いに見えた。
(私が邪魔者なんだわ)
華夜理は身を翻すと、晶の静止も聴かず部屋に駆け込んだ。
ぶくぶくぶく……、と泡の音が聴こえる。
華夜理の部屋全体が水槽になったかのよう。
赤青黄色、緑に紫。
ぶくぶくぶく……、と泡に溺れる。
こんな中で悠々と泳ぐ金魚は何て強いのだろう。
飼っているのだというのは傲慢で、実は自分こそが飼われていたのかもしれない。
華夜理の涙も泡と一緒に浮かび上がり、天井へと昇っていく。
天井かと思えたそこにはぽっかりと空があり、その空のはるか上にも魚影が見える。
(晶にとって、私はいよいよ要らない存在になってしまった)
空想の中に意識を逃がしながら、華夜理は思う。
桜子は綺麗な女性だった。加えて聡明そうで快活で。
華夜理は着物の袖でぐい、と涙を拭く。
(しっかりしなくては。晶の為にも)
悠然と泳ぐ金魚のように。
晶の柘榴は桜子が食べるのだろうか……。