其ノ伍拾壱
若者たちの円満はすべからくして長くは続かない。
翌日の午前中、訪ねてきた栄子は瑞穂を下宿させることに難色を示した。
紫のツーピースに黒いレースのインナーを合わせ、真珠の首飾りや翡翠のイヤリングなど、装飾品も煌びやかだ。脚を組んで煙草を吸う様には品性が感じられず、晶はこれが母親かと今更ながらげんなりした。
「あの、得体の知れない失礼な子でしょう。両親もいない施設育ちなんて……、素行が悪いに決まってるわ」
華夜理がむきになって反論する。
「いいえ。糸魚川さんは素行の正しい、真面目な人です。家事も手伝ってくれます」
「華夜理ちゃん……」
すると栄子は憐れむような目を華夜理に向けた。
「貴方は所詮、お嬢さん育ちだから好い様に騙されてるのよ。それよりも次はいつ、柏手さんとお逢いするの?家でばかり逢ってないで、たまには外で楽しんだら?」
華夜理の内情を知り様もない栄子は、無神経に言葉を続けた。
「女が持て囃されるのは若い内だけよ。余り売り惜しみしないことね。いっそのこと、さっさと柏手さんと懇ろになったらどう?この際、順序はどうでも良いわ。向こうは若いだけで有り難がってくれるだろうし貴方だってそのほうが」
ばしゃり、と栄子に紅茶を掛けたのは、晶だった。
母の頭上から、温くなっても口をつけていなかった紅茶を、浴びせたのである。
ジャガード織りのソファーにまで水滴が飛ぶ。
晶は華夜理にまで掛からないよう、絶妙な角度から栄子に紅茶を浴びせていた。
「何をするのっ」
当然、ヒステリックに喚く栄子に、晶は冷淡に答える。
「華夜理を侮辱する人間は客人でも身内でもない」
「親に向かって何てことするのよ、このスーツが幾らしたと思ってるの!?真珠だって……」
「どうせどちらもお父さんの稼ぎから出た金で買った物でしょう」
その父とて、晶の尊敬する親ではなかったが。
南に位置する応接間には張り出し窓から一杯に日光の恵みが行き届いている。
紅茶を浴びた栄子は眩い陽射しに照らされ、落差もあり、その無残は一層、明らかだった。
「……そう。貴方たちがそんな出方をするのならこちらにだって考えがあるわよ」
今に見ていなさいよ、とどこかで聴いたような捨て台詞を残すと、華夜理が差し出したタオルも邪険に払い除けて出て行った。
晶は何事もなかったかのように母親を見送りもせず、応接間に留まったままだった。
「華夜理には掛からなかった?着物とか」
「うん。大丈夫」
今日、着ている着物は紬風のポリエステル素材で、多少、紅茶が掛かっても大事にはならない。緑の着物には卵色の紬帯に山吹色の帯揚げを合わせ、朱色の帯締めをしてある。いずれにしろ晶は周到に栄子だけ狙って攻撃を仕掛けたのであり、華夜理に被害はなかった。
「あとの始末はやっておくから、安西先生を待たせてるんだろう?華夜理はもう行って良いよ。僕の仕出かしたことだしね」
「晶は私を侮辱した叔母さんに怒ってくれただけだわ」
「うん。ちょっと。あの台詞は頂けなかったかな」
「ありがとう」
「僕がそうしたくてしただけだから」
勉強部屋に戻ると、暁子が心配そうな顔で待っていた。
「大丈夫?華夜理さん」
「はい、先生」
「酷いこととか無茶とか、言われなかった?」
華夜理は曖昧に笑う。
酷いことも無茶も言われたが、栄子と会うに至っては、それは茶飯事なのだ。
暁子はそれでも華夜理の表情から察したらしい。溜息を吐く。
「実はね、華夜理さん。糸魚川さんを家に住まわせるということ、私も懸念してるんです」
「どうしてですか?」
華夜理は軽く驚いていた。瑞穂の事情を知れば、暁子は同情するだろうと考えていたからだ。
「……年頃の男女が一つ屋根の下に三人。そして他にも二人の男の子が訪ねてくる。風紀的にどうなんでしょうか」
華夜理は笑った。
「大丈夫です、安西先生。そのくらいの弁えは私たちにもあります」
その弁えを押し流してしまうのが恋情であると、暁子は無邪気な華夜理の笑顔に言うことは出来なかった。