其ノ伍拾
華夜理は最初、聴き間違えたかと思った。
そのくらい、浅羽は自然体で告白した。顔つきこそ真面目で、ほんの一瞬だけぴりりとしたものの。普通はもっと緊張なりするものではないだろうか。
とは言え、華夜理はその〝普通〟を知る経験値がない。
浅羽の目は凪いで、熱情は感じられない。やはり冗談だろうか。
「浅羽ったら。またそんな冗談を言って」
けれど浅羽の面は動かない。
華夜理の双眸をじっと見つめている。
「……本当なの?」
浅羽が笑う。
「本当だよ。こんな時につけ込むみたいで、ちょっとタイミング悪いけどな」
「……」
「じゃあ俺、帰るわ。狼になりたくねえし」
浅羽はそう言って、軽やかに立ち上がった。
華夜理も立ち上がったが、彼を追うことは出来ない。頭がまだ混乱しているのだ。明かり障子から外に出る浅羽を、ただ見送る。
(最近は幼児退行していない……)
樹影がうっそりとした暗い庭を歩きながら浅羽は考える。
良い意味で、華夜理が前を向いている証拠ではないか。
そう思い、先程の自分の告白を思い出す。
つけ込むみたいで、と言ったのは誤魔化しだ。
正真正銘、つけ込んだのだ。揺れている華夜理に。もとより分が悪い自分だ。少しくらいのずるは許されるだろうと、浅羽は自分に言い訳した。
夜にぼう、と青白く咲く桜は幽かな月明かりを受けて、ひっそり輝いている。その密やかな輝きは人を魔界へと導くようで、浅羽は僅かに身震いした。そしてその桜と華夜理を重ねる。重ねた後、頭を一振りする。華夜理は人を魔界へと導いたりしない。
ただ、甘い官能を与えるのだ。
浅羽が帰ったあと、華夜理は部屋の中を立ったり座ったりしてうろうろしていた。
意味もなく、明かり障子を開けて夜気を吸い込む。
桜の匂いを纏った夜気がふんわりと華夜理の鼻腔をくすぐる。
〝俺、お前が好きだ〟
あれが浅羽一流の冗談でないとしたら、自分はどうすれば良いのだろう。
付書院の上に積まれた本の様々な装丁の彩りと、縁が青い透明硝子の金魚鉢を見る。
今夜はまだ餌をやっていなかったと思い、餌の容器を手に取った。
単純な金魚たちはその気配で餌を貰えると知ったようで、狭い金魚鉢の中をぐるぐると巡った。ぐるぐると。
赤と白の循環。羽衣のような胸鰭、尾鰭の遊泳。
華夜理が餌を撒くと、金魚たちは我先に飛びついた。
自分の中に浅羽への恋心はあるだろうか。
華夜理は考える。
考えながら丹前を脱いで丁寧に畳んで、電気を消して寝床に潜る。
――――解らない。
ただ、告白された時、一瞬、晶の顔が心をよぎった。
それはなぜなのか。
自分は晶に恋愛感情など抱いていない筈なのに。
龍の思い違いだと否定したばかりなのに。
けれどそれならばなぜ、瑞穂と晶が好き合っているかもしれないと考えた時、あれ程心が乱れて痛んだのか。
きっとそれは、長年一緒にいた家族を失いそうで辛かったからだ。
華夜理はそう結論付けた。
そして次に会った時、浅羽にどう接しようかと思いながら眠りに就いた。
そのあと見た夢はとりとめがなかった。
龍が華夜理に跪いたかと思えば、彼の姿はたちまち消え去り、浅羽が剣を持って華夜理の前に立っている。何かから華夜理を守ろうとするかのような勇ましさと頼もしさが、その背中から感じられる。
やがて晶が現れ、浅羽は剣先を彼に向ける。
華夜理がやめて、と言おうとしたところで、晶が隠し持っていた剣で浅羽に応戦する。華夜理は再びやめてと言う。
すると振り向いた二人の手にはなぜか柘榴が握られている。
どちらかの柘榴を選べ、と二人に迫られ、華夜理は後ずさった。
そうすると二つの柘榴は赤い柘榴石へと変化し、空を高く高く昇ってゆく。
赤い点が青空にぽつりと二つ出来る。
それを見届けたところで華夜理は目が覚めた。
瑞穂が切り出したのは朝食の席でだった。
「そろそろ私、家に帰っても良いかしら。晶君の脚も、ほとんど治ったみたいだし」
高野豆腐を箸で切り分けながらなので、下を向く瑞穂は晶とも華夜理とも視線を合わせていない。高野豆腐の隣にはひじきが入った器があり、その奥に小松菜の煮浸しがある。
期せずして華夜理と晶が顔を見合わせた。
「糸魚川さん。うちに下宿する気はない?敷金、礼金、家賃なしで。食費だけ少し入れてくれれば」
晶の提案に、華夜理は思わず頷いた。
晶と瑞穂が云々、といった考えは頭になかった。
単純に、華夜理はこの無愛想な少女が嫌いではないのだ。
「そうすれば良いわ。幸い、うちは部屋が余ってるくらいだし」
「水光熱費の代わりにおさんどんしろって?」
「それは僕がするから、糸魚川さんは今まで通りで良いよ」
座敷に差し込む明るい陽射しの中、瑞穂の顔つきが和らいだように見えた。
「……今のアパートを引き払う手間とか面倒なんだけど」
「それは僕や浅葱が手伝うから」
晶が敢えて浅葱の名を出した理由を、華夜理も瑞穂も察していた。
この家にいれば、浅葱と瑞穂が接触する確率は高くなる。
「考えてみるわ」
瑞穂はそう言ったが、もう彼女の中で結論が出ていると、晶と華夜理は知っていた。