其ノ伍
子守唄のように穏やかで柔らかな香りがする。
その香りは華夜理が今朝焚いた麝香とは全く別種のものだった。
晶が持った銀のトレイから漂ってくる。
華夜理と晶は今、この家の玄関に入ってすぐ左手にある応接間にいた。応接間の天井は高く、アール・ヌーヴォー調の若草色に牡鹿の意匠と凝ったシャンデリアが下がっている。五人掛けのソファーは胡桃材のテーブルを挟み一対として向かい合う。ソファーはジャガード織りで、野の草花が華麗に描かれており、縁には金色の糸が縒られたフリンジがついていた。
和の空気が支配する座敷とは全く異なるこの応接間も、華夜理は好きだった。ソファーに座る時、帯が崩れないように背筋をぴんと伸ばしていないといけない。尤も華夜理は物心ついてより背筋を伸ばすのが習い性となっていた。晶に言わせると華夜理の美徳の一つだそうだ。そう言う晶も、いつも凛然として乱れたところがなく、同年代の少年たちの持つ野卑とは凡そ縁がなかった。華夜理もまた、晶のそんなところを好ましく思っていた。
寡黙な銀に載せられ運ばれてきたのはカモミールティーとスコーン、それに添えたブルーベリージャムだった。
白磁に細い金のラインが入ったティーカップには薄い金色の液体が温かな湯気を生み出してその淡く白い湯気さえも応接間の装飾の一つのようだ。
カモミールティーには心身をリラックスさせる効果と共に、気管支の炎症を和らげる効能もある。晶は長く外にいた華夜理の咽喉を気遣ったのだ。それを裏付けるように、カモミールティーには蜂蜜が入っていた。
こんな心配りはどんな執事にも望めまい。
華夜理は感謝の念を籠め、いつものように晶に言う。
「ありがとう、晶」
晶もまた、いつものように答える。
「どういたしまして、華夜理」
従妹を見つめる晶の目は、カモミールティーよりも穏やかだった。
その目がふと、華夜理が膝に掛けたショールに留まる。
淡い空色のカシミア。
華夜理がそれを大切に使ってくれていることに喜びを感じると同時に、仄かに苦い思いも湧く。
あの時、自分一人で華夜理を守れなかったと。
早くに亡くなった華夜理の両親の遺産を狙う自分の両親たち。表向きは病弱な華夜理を心配する彼らを、みすみすこの家に招き入れざるを得なかった。自分がもっと大人であれば。いや、大人の味方が一人でもいてくれたら、事態はもっと変わっただろうにと晶は思う。華夜理の家庭教師に選んだ暁子が、どの程度華夜理を守る防波堤となるものか――――――晶はそれを冷静な目で見極めようとしていた。現在のところ、華夜理に接する態度において、彼女に過不足はない。あとはどの程度、暁子に華夜理への愛情に近い執心を持たせられるかだ。
さくり、と華夜理がスコーンを齧る。
一対の桜貝が割れ、そこから真珠のように皓い歯が垣間見える。
着物の肩口に流れる黒髪。
ふ、と晶の心が揺れる。
恋情と言うには彼は余りに華夜理を神聖視していた。
彼女さえ幸せならば良いと思う。
華夜理の為になら自分は幸福の王子にもなれる。
その時、華夜理が長い睫毛に縁取られた瞳を晶に向けた。漆黒の純粋。
「ねえ、晶。私ね、時々、思うの」
「何をだい、華夜理」
「私は、晶の為になら何でも出来るんじゃないかしらって」
まるで自分の心を見透かし、図ったように言われたタイミングに、晶は驚いて漆黒の双眸を見返した。
そこには宇宙を凝縮したような純粋の塊がある。
桜色が湾曲を描く。
「私、貴方が誰より大切だから」
子守唄のような柔らかで穏やかな香りの中、晶は目を閉じる。
自分は華夜理の為になら幸福の王子にもなれる。
そして華夜理を守る為になら悪魔に魂を売るも容易い。
そんなことを至福の心地で思う自分を、晶は幸せだと思った。
金色の残り香のようなカモミールティーの効能は、自分にも作用しているのかもしれない。