其ノ卌捌
流石に龍をそのまま放っておくことは出来なかった。
華夜理は龍を見送る為に玄関に向かおうとした。その華夜理の腕を、晶が掴む。先程、龍が掴んだように。だが龍のように手荒くはなかった。そして華夜理の顔を物言いたげに見ると、その手を放した。華夜理は足早にその場を去った。
晶は付書院に置かれた金魚鉢を見る。
中で泳ぐ一対の金魚。優美に尾鰭を動かして。
――――一対であると決めるのは見る者の目だ。
彼ら自身は相手の存在に何ら固執していないかもしれない。ただ美しくも堅牢な檻があるから、仕方なく一緒にいるのかもしれない。
とろりと輝く透明硝子の中の、華麗で哀れな生き物。
華夜理と自分もまた、哀れな囚われ人なのだろうか。
「柏手さん。今日はすみませんでした」
「何を謝られるのです?非があるのは明らかに私のほうです。……あんな醜態を晒して。……ですが私はまた、貴方に逢いたい。逢ってくださいますか?」
「…………」
「今日のような振る舞いは決してしないと誓います」
「はい……」
華夜理が小さく頷くと、玄関の三和土に立っていた龍はほっとしたように微笑んだ。あたりには夕日の光が控えめに満ち始めている。雨に濡れた地面が水蒸気を放ち、外気の温度を上げていた。
龍を見送り、鍵を掛けながら華夜理は思う。
龍は自分の何を気に入り、これ程までに執着するのだろうか。
一人の女性としてそのことを鼻に掛ける積りは華夜理には毛頭なかった。寧ろ戸惑う気持ちのほうが強い。
華夜理の願いはただ、晶の幸福。
晶がこの小箱のような家から空に放たれること。
けれど晶は?
晶自身の本当の望みは何だろう。
訊かなくてはいけない。
けれど訊くのが怖い気もする。
これだから駄目なのだ、と華夜理が玄関で悶々としていると、瑞穂が帰ってきた。
「糸魚川さん、お帰りなさい」
「ただいま。こんなところで何やってるの?」
華夜理は赤面して口籠った。場所も考えずすっかり考え込んでしまっていたことが恥ずかしい。それから瑞穂の様子をちらりと窺う。
相変わらず、顔立ちは綺麗だが陰鬱な雰囲気だ。身に纏う空気の為に、年頃の娘が享受するであろう幸を自分から放棄しているようだ。だが数日前、浅葱が来てからその固い雰囲気が僅かに和らいだと華夜理は感じていた。二人の間に何かあったのか、忖度する無粋をしてはいけないと思うものの、気になってしまう。
瑞穂が家に上がり歩き出したので、華夜理も自然にそれに付き従うように廊下を歩く。
「今日は見合い相手と会う日だったんでしょう?どうだったの」
瑞穂から話し掛けてくれることは珍しいので、華夜理は喜びつつ、どう答えようか迷った。
「……大正琴を弾いたわ」
「貴方の部屋で?」
「どうして解るの?」
華夜理は驚いて尋ねた。
そんな華夜理を瑞穂は莫迦にするように嗤った。
「常套手段じゃない。男が部屋に上り込むのは」
「浅葱……も?」
恐る恐る華夜理が訊くと、頬に鋭い熱が奔った。
一拍遅れて、瑞穂に叩かれたのだと気付く。
瑞穂は頬を紅潮させて華夜理を睨んでいた。
「お嬢様の癖に下種の勘繰りが得意なのね」
これには華夜理もかっとした。
「先にこの話を始めたのは糸魚川さんよ」
「だからと言って、自分の従兄弟の月島君を貶めるようなことを言って、恥ずかしいとは思わないの?」
「私はそんな積りで言ったんじゃない」
「何を騒いでるの」
夕飯の支度をしていた晶が、少女二人の怒鳴り合う声に何事かとやってきた。
瑞穂も華夜理もばつが悪くて黙り込む。
瑞穂がさっさと二階に上がり、華夜理は立ち去る機会を逸した。
晶の手が華夜理の頬に伸びたので、反射的に避けてしまう。
「……赤くなってる。糸魚川さんに叩かれた?」
華夜理は溜息を吐き、頷いた。
「私も悪かったんだけど。糸魚川さんは短気だわ」
晶が笑う。
「困ったお嬢さんたちだね。頬は腫れるといけないから、アイスノンで冷やしておいで」
台所に戻ろうとする晶の手を、華夜理が掴んだ。
「……何?」
「あ、ごめんなさい。つい」
華夜理が出した手の手首には龍の残した痣があった。
輪っか状に赤黒く鬱血している。
「……華夜理。柏手さんに会うなとは言わない。けど、次に乱暴な真似をされそうになったら、この見合いを破談にしてくれないか。僕からも母さんたちに言うから」
晶は華夜理をじっと見つめる。
「――――うん。解った」
晶が、丁度、龍が浮かべたのと同じようなほっとした笑みを浮かべた。
その時、自分の心に湧いた感情が何なのか華夜理には解らない。
ただずっと、晶にはこうして笑っていて欲しいと思った。笑っている晶を傍で見ていたいと思った。
それは晶を解き放とうとする願いとは相反して、矛盾するものだった。