其ノ卌漆
大正琴の音色が聴こえる。……一階の華夜理の部屋のほうから。
晶は自室で教科書を開きその音に聴き入っていた。
今、華夜理は龍と会っている。
だからだろうか。これ程、琴の音が艶めいて聴こえるのは。
龍の為に『水色のワルツ』を切なげに奏でているのだろうか。
その考えは晶を憂鬱にした。
龍からは甘い匂いがした。華夜理が焚く香の麝香や白檀などとは違う、もっと軽やかな異国の香りだ。オードトワレだろう。龍らしい嗜みと言えた。それから外界で働く男の匂い。車や、街路などの。華夜理の頭の妙に冷静な部分はそう判じていた。実のところ、華夜理はパニック状態に陥っていた。大の男から抱き締められ、その熱の高揚振りに圧倒されて怯えた。
「嫌っ」
華夜理が叫んで腕を突っ張ると、はっとしたように龍は腕の縛めを解いた。
華夜理は部屋の端、衣桁のところまで避難した。
「華夜理さん、すみません。つい、我を忘れてしまいました」
我を忘れる?
大人の男性がこんな子供の自分に?
恋愛の熱が高じる余り?
そんなことがあるだろうか。
慎一郎の例もある。単に、欲情に駆られただけではないのか。
華夜理の懐疑的な視線に、龍は多少なり、傷つく自分を感じた。
傷つき、また、憤りを覚える自分を。
「貴方はやはり晶君が好きなのですね」
声は低く、唸るようになった。
華夜理はますます怯えた。
「違います、私は晶を好きだけれど、そういう好きではなくて」
「いいや、それこそが違う。貴方は晶君に恋愛感情を抱いている。恐らくは、晶君も」
「違います」
「なぜ認めないのですか?私を莫迦にして面白がっているのですか?」
「いいえ」
龍がつかつかと華夜理に近づき、その手首を掴んだ。
「痛っ」
「私の母は学生結婚で私を生んだ。結局、相手には捨てられ、私を一人で育てた。水商売をしながら。……色んな男が母の元を訪れた。私は女性に対して懐疑的になった。華夜理さん。貴方はそんな女性の中でも特別だと思っていたのに」
「痛い、放してっ」
華夜理が自由な片方の手で自分を束縛する片方の手を引っ掻くと、龍は手を放した。
華夜理は、今度は文机のほうに駆け寄ると、大正琴を無茶苦茶に掻き鳴らした。
「華夜理さん……」
龍が我に帰ったような顔になるのと、部屋の襖が開くのは同時だった。
「華夜理!」
「晶……」
晶が手を伸ばすと華夜理がそれに自分の手を重ねた。
「……私の主張の裏付けですか?」
龍が僅かに青くなった顔で呟く。
晶は華夜理を背後に庇い、龍に告げた。
「申し訳ありません。華夜理は気分が悪いようなので、今日のところはお引き取りください」
断固として譲らない口調に龍は、ゆっくりと頷いた。
「どうやらそのようだ。華夜理さん、乱暴をしたことを謝ります。……貴方が母と同じである筈がないものを。今日のところはこれで失礼します」
経験を重ねた大人だけあり、精神の動揺を鎮めた龍はそう言うと、殊勝に退室した。




