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其ノ卌陸

 朝が来るのが早くなっている。華夜理は白んできた障子紙を見てそう思った。季節は確実に進んでいるのだ。もうすぐ桜も満開を迎えるだろう。

 晶と自分はどうなっているだろうか。

 何かが満開を迎えるということは、それまでの時節の終わりを意味する。

 晶は欲しいものがあると言った。何だろう。自分には与えることが叶わないものだろうか。

 華夜理は飴色に染めた紬に、アンティークの更紗模様の帯を締め、青い帯揚げと鶯色の帯締めを合わせた。

 それから思いついたように付書院に積まれた本の中から百人一首の本を取り出し、ぱらぱらとめくった。百人一首のその本は、和紙で、和綴じで作られた物で、鑑賞するだけでも価値がある。


(百人一首は恋の歌が多いのよね……)


 華夜理にとって恋愛とはまだ未知数で、得体の知れないものだった。

 浅葱のように、晶が誰かに恋しているのかもしれないと思えば、驚く程に胸が苦しくなったけれど、彼の幸せは祝福しなければならないと考えた。

 百人一首の本を閉じ、金魚に餌をやる。

 一対の金魚。

 彼らは寂しくないのだろうか。

 それとも互いが在るだけで満たされているのだろうか。

 餌に喰いつく金魚は無邪気に赤い模様を閃かせている。



 庭をゆっくり、龍と歩く。

 龍は世知に長けて、色んな物事を知っており、華夜理のような小娘でもついていける話をして場を退屈させることをしなかった。頭が良く、機転が利く大人だと華夜理は思う。

 今日の天気はやや薄暗く、花曇りの一日だ。



「晶君の脚の具合はどうですか」

「だいぶ良くなってきました。もう少しで完治しそうだと言っていました」

「そうですか。そしたら家にいる、ええと、何と言う名前だったかな」

「糸魚川さん?」

「そう。その子も自分の家に戻るのかな」

「多分……、そうなると思います」

「そうか。寂しくなりますね」


 実際、瑞穂とは打ち解けた間柄とは言えないものの、彼女がいるといないとではこの家の空気が違うと華夜理は思った。人一人いるだけで、家はその様相を変える。

 それにこのまま瑞穂がうちからいなくなると、浅葱はどう思うだろう、と華夜理は考える。余計なお世話かもしれないが、彼らの仲が進展するには瑞穂がこのうちに留まるほうが良いだろう。華夜理はそのことを晶と相談しなければと思い立った。


 桜降る。

 それに合わせて空から透明なる一滴が落ちてきた。


「降ってきましたね。小雨でしょうが、中に入りましょうか」

「はい」


 龍が華夜理を庇うように腕を華夜理の頭上に伸ばすと、樹の幹のような傘となった。

 晶は今頃どうしているだろう。

 渡り廊下まで戻りながら華夜理はそれを気に掛けた。

 恐らく自分の部屋で勉強か読書でもしているだろうが……。

 今の自分と龍の姿を、どうしてだか彼には見られたくないと思った。


 二人は座敷に場所を移した。

 華夜理が持ってきたタオルで、龍は軽く身体を拭いた。尤も上等な生地のツイードは些少の水滴は弾き、龍の髪も僅かに濡れただけだった。

 華夜理は龍の腕の傘のお蔭でほとんど濡れていない。


「華夜理さんは大正琴を弾かれるとか」

「ええ」

「何か聴かせてくれませんか」

「……はい。では持って参ります」

「出来れば華夜理さんの部屋で」

「――――――解りました」


 不躾なような龍の発言だが、物腰の穏やかさ、柔らかさがそうと思わせない。

 華夜理はこの柔和に浸食する龍の押しに流される自分を感じた。


 初めて見る華夜理の部屋を、龍は興味深そうに見回した。その様子も、品性を失わない程度のものだったので、華夜理は不快にはならなかった。

 付書院、違い棚、文机、桐箪笥、本棚、鏡台、衣桁。

 華夜理は大正琴を文机の上に置いた。


「何を弾きますか?」

「何でも。華夜理さんの好きなものを」


 華夜理は少し考えて、『水色のワルツ』を弾くことにした。


 しゃらしゃらり。

 しゃらりしゃらりと音が流れる。


 緩く悲しく物憂げに切なく。


 水色のハンカチに寄せて切ない想いを歌う曲。


 しゃらしゃらと鳴る音は華夜理の心を乗せて。

 その楽の音は歌詞さえありありと思い起こさせるようで。


 弾き終えた華夜理に龍は訊いた。


「……誰を想って弾いたのですか」

「誰も」

「嘘ですね」


 龍の胸には嫉妬が渦巻いていた。華夜理に今の曲を弾かせたのは自分ではなかったか。なのに華夜理は自分以外の男――――晶を想い琴を奏でた。

 恋歌を。

 ぎり、と歯を食い縛る。

 そして肝心の華夜理にその自覚はないのだ。


 龍は華夜理の細い手首を掴むと、引き寄せ、有無を言わさず抱き締めた。

 荒ぶる想いが龍をして、ほんの少女に熱情をぶつけさせたのだ。




挿絵(By みてみん)








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