其ノ卌伍
春うらら。
麗らかな気候の午後、華夜理は自室で大正琴を弾いていた。
『浜辺の歌』がしゃらしゃらと鳴る。
あした浜辺を さまよえば
昔のことぞ しのばるる
風の音よ 雲のさまよ
寄する波も 貝の色も
歌詞を思い出しながら華夜理は、晶と最後に行った海の光景を思い出していた。あの頃はまだ、二人して無邪気に笑い合えた。浅葱に偲ぶ過去があるのなら、華夜理にとてあるのだ。
皆が皆、口を揃えて晶は華夜理の傍に好きでいるのだと言う。けれど華夜理にはそれが信じられない。晶自身に確かめるのも怖くて出来ない。
次第に曲調が激しくなっていく。華夜理の感情の昂ぶりのままに。
音階ボタンを押さえ、ピックで強く弦を弾く。
漆黒の大正琴は華夜理の感情に寄り添うように従順に歌う。
余り知られていないが『浜辺の歌』は三番まである。
華夜理は三番目を奏する。音程が変化する訳ではないが、調べの緩急は華夜理の腕前で巧みに操られていた。華夜理は歌詞に合わせて、弦を爪弾きメロディーを変化させた。
疾風たちまち 波を吹き
赤裳のすそぞ ぬれひじし
病みしわれは すでに癒えて
浜辺の真砂 まなごいまは
激しい風が波を吹き上げて、赤い着物の裾は濡れてしまった。
私の病気は治ってきたが、浜辺の砂、いや、私の子供はどうしているだろうか。
そんな意味の三番まで弾き終えて、華夜理はピックを置いた。虹色の光沢を持つピックが、光を受けて煌めく。
虹色の……。
虹を母と眺めたことがあった。
遠い昔。
自分が今、母を恋うるように、母もまた、あちらで自分を恋うていてくれるだろうか。真砂の如く。
「お母さん……」
(どうして、死んでしまったの)
晶とのことも、母が生きていれば相談出来たかもしれない。自分が晶を束縛してはいまいかという恐れを、母が笑って否定してくれたなら、誰が言うより説得力があっただろう。けれどそれは叶わない夢だ。思っても、悲しいだけの。
華夜理の演奏は晶の耳にも届いていた。病院からの帰り、『浜辺の歌』の調べが聴こえてきた。晶はその歌詞を思い、曲調の変遷から華夜理の心情を思った。
華夜理はまた海に行きたいのだろうか。
浴槽を囲む貝を増やしたいのだろうか。
恋という感情さえなければ、当時のように過ごせたものを。
例えば今、華夜理に恋愛感情を抱いていると打ち明けたところで、あの憶病な少女は当惑し、自分に警戒心を抱くだろう。
いっそこの家から離れれば、全ての憂いは消えるかもしれないが、痺れるような幸福もまた、同時に消える。
晶は座敷で湿布を貼り替えながらぼんやり大正琴の音色に意識を委ね、そうしつつ物思いに耽っていた。
演奏が終わる頃を見計らったように、家の固定電話が鳴る。
電話は栄子からだった。
『それでね、今度もまたそちらで逢いたいと柏手さんが仰っているのよ』
「……華夜理に伝えておきます」
『そうして頂戴。晶、こうなったら貴方もいつでもうちに戻ってきて構わないのよ。そちらには家政婦でも雇えば済むことなんですからね』
上機嫌の母との電話が終わったあと、晶は通話中に感じた違和感を精査した。
なぜ、龍はこの家で逢うことを指定してきたのか。思えば前回も家で華夜理と逢っていた。華夜理が初めて龍と外出した時、幼児退行したように話を聴いた。その様子を見た龍が、華夜理の心の傷に気付いたとしたら。彼女の傷を刺激しない為という気遣いのもと、家で逢うことを望んでいるのだとしたら。
それはあの大人の男が、まだほんの少女である華夜理に本気になっているかもしれない可能性を示唆する。晶は焦りを覚えた。
華夜理を盗られてしまう、という焦燥だった。華夜理が同じように瑞穂に晶を盗られると怯えたことを彼は知らない。
当人同士が知らないだけで、晶と華夜理に共通する感情は実に多かった。
内情を互いに打ち明け合えばほどける糸は、絡まったまま。華夜理は晶の心を知らず、晶は華夜理の心を理解しようとしない。
その夜、夕食のあと、晶は華夜理を観月に誘った。
青白い月の美しい晩。
桜は既に八分程咲いている。
昼間は無邪気な美しさで人の目を楽しませる桜が、夜はどこか妖艶な風情で佇んでいる。やわやわと、白い手で人を招くようで。
松や菊、梅、紅葉など四季の植物が描かれた水色の着物に、縮緬の古布で仕立てられた帯を合わせた華夜理が月光のもと、桜の傍に立つ様子に晶は密かに見惚れた。
「春まだ浅く月若き
生命の森の夜の香に
あくがれ出でて我が魂の
夢むともなく夢むれば……」
「啄木かい?」
「うん」
そのほうが『浜辺の歌』よりずっと良いと晶は思った。あの歌を、華夜理が口ずさむのは悲し過ぎる。
月が近い。手を伸ばせば届きそうな程。
実際、晶は月に手を伸ばし、そんな自分の稚気を恥じた。
「cry for the moon」
照れ隠しもあって、自分で言ってみる。
月が欲しいと泣く子供。転じて不可能なことを望むことを意味する言葉だ。
華夜理は母恋しと思った自分の気持ちを見抜かれたように思いどきりとした。
「欲しいものがあるの?」
「あるよ」
晶は微笑する。久し振りに華夜理に優しく笑えた気がした。
欲しいものはすぐそこにある。なのに月より遠い。
「なあに?」
「教えない」
華夜理には絶対、教えない、と晶は胸中で繰り返した。
華夜理の膨れっ面は可愛い。
今この瞬間、時が止まれば良いのにと晶は思う。
池の鯉がぱしゃりと跳ねて、水飛沫を月光にまぶした。




