其ノ卌参
桜が綻び始める。ここ最近の気温の上昇は、白とも淡紅色ともつかぬ花びらに目覚めよと促していた。柔らかな天鵞絨を思わせる手触りの花びらが、ゆるゆると覚醒し、その腕を広げていく。
陽が射すとその可憐さは更に引き立てられ、初々しい少女のような様相を見せる。
今が五分咲きといった桜を、龍は華夜理と共に眺めていた。
華夜理は外ではなく、自宅で逢いたいと栄子を介して龍に伝えた。
龍もまた、そのほうが良いだろうと思った。前回のように外で幼児退行するより、家のほうが処しやすいだろう。
幼児退行。
龍はその事実を栄子に確認した。栄子は何も知らないようだったが、華夜理の先日の振る舞いは、両親を交通事故で亡くした痛手――――つまりはPTSDによるものであろうと見当をつけた。
珍しい話でもない。
そう、以前の龍であれば思うだけだっただろう。
しかし。
桜の下に立つ少女は一枚の絵のようだ。それも油絵のように主張の激しいものではなく、水彩画や、日本画のように優しく儚げな。
灰桜色と花の丸文様が楚々とした江戸小紋に、艶やかな光沢の緻密な織り帯。帯留めは帯の中の紫と合わせたアメジスト。長い漆黒の髪を初春の風に遊ばせて、華夜理は舞う花びらの一片に手を伸べている。
陽の恩恵を受けて華やぐ少女と桜。
「……てっきりもう逢っていただけないかと思いましたよ」
龍の声に、華夜理が振り向く。
どこか悲しげに微笑んで。
「また逢うとお約束したのでしょう?」
「けれどそれを貴方は憶えておられない」
「ええ。でも約束は約束ですから」
「……晶君がいるのでしょう」
「晶は……」
華夜理が頭を振ると髪についていた花びらがはらりと落ちた。
それは華夜理の涙のように龍には思えた。
「すみません、柏手さん。私、貴方に嘘を吐いていました」
「貴方と晶君が恋人同士でないことは解っていましたよ。……そして貴方にとって晶君が特別であることも」
晶にとってもそうであるように、とは龍は言わなかった。
自分にとって不利となる事柄を全て明かす程、龍は無欲な紳士ではない。
「神は一つの顔で作られた、でも貴方はもう一つの顔を持つ」
「……それもシェイクスピアですか。お好きなんですね」
「ええ。今度、舞台を一緒に観に行きますか?」
「……考えさせてください」
苦しげに顔を歪めた華夜理を見て、龍の心が疼いた。
桜は綻び、池の周りを囲む花崗岩の雲母は煌めき、清い水に鯉が遊んでいる。
空はぽかんと突き抜けたように青の手本を見せている。
何もかもに祝福されたようなその中で、華夜理一人が憂いを纏っている。
だからこそ、際立つ少女の心根の光に、龍は魅了される。
何が何でも欲しいと、そう思うのはいつ以来か。
もしも華夜理がまるで健全な少女であれば、ここまで惹かれなかったかもしれない。苦労知らずの、ただの美少女であれば。しかし華夜理の抱く大きな傷は彼女を複雑且つ多彩に輝かせている。――――惹かれずにはいられなかった。
「皆人、聴けよ。我は彼女の僕」
「それもシェイクスピアですか?」
「いいえ。私の言葉、です」
龍は華夜理の白魚の手を取ると、そっと口づけを落とした。
晶は二階の自室の窓から、そんな二人を見ていた。