其ノ卌弐
浅葱は自他共に認める聡明な男子だった。そして人に接する時には気遣いを忘れず、困っている他人がいたらさりげなく手を差し伸べる。常に気さくで朗らかで。
そんな彼の顔が能面のように凍り、押し黙る瞬間を華夜理は初めて見た。晶と瑞穂の一部始終を話し終えた瞬間だった。
しかしそれは一瞬のことで、すぐに浅葱はいつものにこやかな顔に戻った。
「その浴衣、新しいね。千鳥柄だ」
「あ、うん」
紺地に白い千鳥が戯れる浴衣の袖を、華夜理は引っ張って見せる。
「淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 情もしのに 古思ほゆ」
「柿本人麻呂ね」
「そう。万葉集だ」
「浅葱にも偲ぶような過去があるの?」
「あるよ」
浅羽と比べて浅葱は優等生として扱われてきた。小さな頃から。
ピアノコンクールに出て賞を獲り、学業もスポーツも常に優秀な成績を残し。
周囲の称賛の中で生きてきた。
けれど浅葱は華夜理や晶、浅羽と遊び転げていた時が一番、楽しかった。己を解放する自由があの頃にはあった。知らず知らず、自分を抑圧する術を学び、周囲の期待に応えてきた。
だからだろうか。傷だらけで。凛と立つ瑞穂に惹かれたのは。
在りのままの自分を曝け出して何ら恥じるところがない。
威風ある少女の美しさに魅了された。
もし子供の頃に瑞穂と出逢っていたなら。
「…………」
そんな仮定は虚しいと気付き浅葱は顔を俯ける。
「浅葱……どうしたの?悲しいの?」
「何でもないよ。華夜理。それより、柏手さんとまた逢うんだって?」
華夜理は痛いところを突かれたように唇を引き締めた。
「――――ええ」
「どうして?」
「晶を私から解放する為に」
決死の覚悟で言ったそれは、しかし浅葱の顔を憂いがちにさせただけだった。
「華夜理。鳥籠で一度飼われた鳥は、自由を得ても生き延びることは出来ない。鳥籠が既に、鳥の世界の全てとなっているから」
「晶はそんなやわな人じゃないわ」
「断言しても良い」
浅葱が顔つきを改めて言った。
「晶は華夜理に関する事柄に関しては誰より強く――――そして誰より脆いよ」
「……晶、怒っていたわ。私の好きにすれば良いって」
「そうだろうね」
「どうして?」
「その答えは晶自身に直接訊いてごらん」
赤と青の彩りに似ているな、と浅葱は思った。
冷たく怒れる晶と、煮え滾るような瑞穂。
両極端だがその根底にあるものは同じだ。
浅葱は違い棚の上段に活けられた蒲公英を見る。
その明るく素朴な黄色は、青とも赤とも違い、浅葱を慰め励ますように思えた。
浅葱がコートを羽織り、帰る様子を見せたので、華夜理は少し驚いた。
「もう帰るの?」
「うん」
「……糸魚川さんに逢って行かないの?」
細かい紙片のような笑みを口の端に浮かべ、浅葱は頷く。
「今、逢ったら、どうなるか解らないから。自分でも」
いつも冷静な浅葱とは思えない台詞に、華夜理は息を呑んだ。