其ノ卌
その日も静かな食卓だった。大根と豆腐の味噌汁を飲みながら、華夜理は晶と瑞穂の様子を窺う。二人共、さりげない風を装っているが、どことなく挙動が不自然だ。敢えて互いを避けているような――――――。
春を予感させる陽が入る座敷で、華夜理は違和感を覚えていた。
「急がなきゃ」
瑞穂が座敷の置時計を見てぼそりと呟く。この家から瑞穂の高校に遅刻しないように登校するには、いつも晶が家を出ていた以上に早く家を出なければならない。
食事が終わると瑞穂は鞄を持って玄関に足早に向かった。華夜理もそれについて行く。見送りと、鍵を閉める為である。
飴色の廊下を滑るように歩く少女二人を、十二面体の電灯が見下ろしている。
ぱたぱたと軽い足音が響いた。
瑞穂が靴を履き、玄関の三和土に立ったところで華夜理を振り返る。いつもは無言で出て行く彼女が珍しい、と華夜理は思う。
だしぬけに瑞穂が言った。事務連絡のように。
「あたし、昨日、晶君とキスしたわ」
じゃ、行ってきます、と瑞穂は続け、茫然自失の華夜理は玄関に取り残された。
その横には古伊万里に活けられた梅と万作と馬酔木。
少女の心の混迷を見守るように、静かな華やぎを見せていた。
先程の瑞穂の言葉が頭の中で何度も再生されている。
座敷に戻った華夜理の様子がおかしいことに、晶は気付いた。つけていたテレビを消す。元々、テレビはほとんど見ないほうだが、脚が不自由になってから退屈な時間が増えたのだ。華夜理は食器洗いをすると言い張った。食後の自分にすることはない。
「華夜理。どうかした?」
「…………」
(だから二人の様子が変だったんだわ。いつから?二人は好き合ってたの?糸魚川さんが好きなのは浅葱だと思ってた)
「華夜理」
「晶……。糸魚川さんと」
そこで華夜理は一呼吸置いた。
「糸魚川さんと」
それでもその先が言えない。胸が痛くて苦しくて、息が出来ない。
晶はそこまでの言葉で察したようだ。軽く頷く。
「うん。糸魚川さんとキスしたよ」
「…………」
「でも華夜理には関係ないことだよね」
晶の眼鏡のレンズが曇ってよく見えない。
違う。それでは理屈に合わない。華夜理の目が涙に曇って晶の顔を見えにくくしているのだ。
「……だって糸魚川さんは、浅葱が好きな人で、彼女も、浅葱が好きでしょう?」
くすりと晶が笑う。冷やかに。華夜理の視界がますます曇っても、それだけはなぜかはっきりと判るのだ。
「華夜理が気にするのはそこなんだ?本当は別のところなんじゃないの?」
「別のって」
「僕が他の子とキスしたのが気に喰わない」
「――――そんなことないわ」
「華夜理は僕のことをどう思ってるの」
「好きよ。誰より大切だわ」
「その〝好き〟は恋愛感情じゃないよね?じゃあ僕が誰とどうしようが、華夜理には関係ないだろう」
いつもの晶ではない。こんな突き放すような冷たい言い方、晶はしない。
これは誰?
華夜理は食器も放置して自分の部屋に駆け込んだ。
晶は華夜理の後ろ姿を見ながら微苦笑した。
泣かせてしまったと思いながら。
(僕も浅葱のことは言えないな)
部屋に駆け込んだ華夜理は勢いよく襖を閉めた。それから別のことに意識を向けようとする。無我夢中で。
今日の装いは段ぼかしの紅花染めの紬に、万寿菊が織られた西陣の名古屋帯。帯締めは浅葱色。
浅葱――――――。
彼はこのことを知っているだろうか。
知ったらきっと嘆くだろう。
いや、いやその前に、晶と瑞穂は相思相愛なのだろうか。
駄目だ、逃げられない、逃げなくては。
華夜理は目を瞑り、意識を宇宙へと逃す。
どこまでも果てのない、漆黒に煌めく星々。華夜理の宇宙。
だが今日はその彩りがくすんで見える。
いつもであれば泉のように湧くイメージが冴えない。
背景は薄墨色にぼやけ、星の輝きが控えめでひっそりとしている。
天の川の流れは止まった。
その代わり、華夜理の頬に川が流れた。
一日中、華夜理は食事の時以外、晶を避けて過ごした。暁子から何かあったのかと訊かれたが、項垂れて首を振り、何も答えなかった。
瑞穂が帰ってからもそれは続き、夕食時、瑞穂と晶は共犯者のような感覚で、目前の二人の関係に思いを馳せつつ、必死に耐える華夜理を見ていた。
夜になり、華夜理がぼんやり『銀河鉄道の夜』のページをめくっていると、すっかりお馴染みになった明かり障子を叩く音が聴こえた。
「よ、元気か」
明かり障子を開けると、入ってきたのは浅羽だった。屈託のない笑顔に、華夜理は思わずほろりと涙をこぼした。
一度こぼした涙は止めようがなく、ほろほろと流れ続ける。
「ど、どうしたんだよ、お前」
「浅羽。晶を、糸魚川さんに盗られちゃう」
ひどく子供じみた言い方だと自分でも思った。けれどそれは今の華夜理の偽らざる本心だった。
晶を瑞穂に盗られてしまう――――――。
浅羽が真面目な顔つきになって、スタジアムジャンパーを脱いで華夜理の真正面に胡坐を掻いた。
「最初っから話してみろ。聴いてやるから」
華夜理は頷き、朝からの一連の流れを浅羽に説明した。
「ふーん……」
浅羽は軽く首を傾げながら、華夜理の話を自分の中で咀嚼し、思った。
(狂言か、でなきゃ華夜理に晶への恋愛感情を啓発する目的だろ)
晶と瑞穂に何かあったかどうかは別として、浅羽にはそう思えた。
けれどそうすると、晶には華夜理への恋愛感情が芽生えた――――もしくは既に芽生えていたことになる。
(あいつ、本気になったか)
「気にするな。晶が華夜理より他の誰かを選ぶなんてことねえよ。晶もな、ちょっとお前を苛めてみたかっただけだ」
「晶は意地悪なんてしないもの」
「すーるーんーだーよ、男にはそういう時があるの」
俺が好例だろ、と浅羽は思う。思うだけで口には出さないが。
華夜理の心情は別として、今晩の華夜理に幼児退行の兆しは見られない。
――――――恋は前を向いてするものだ。
晶と瑞穂の一件が華夜理を過去から現在に縫い止めているのだとしたら、それは怪我の功名と言えるのではないかと浅羽は思った。