其ノ肆
華夜理はカシミアの厚いショールを羽織った。淡い空色の上等のそれは、晶が寒い時期でも華夜理が身体を冷やさないようにと自ら買いに出向いた物だ。華夜理は昨年の冬、風邪をひどくこじらせた。幸い、肺炎にまでは至らなかったものの、当時の晶の心配ようときたら並ではなかった。今は離れて別に暮らしている晶の父母、華夜理の叔父叔母の心配を、普段であれば冷淡に退ける晶が、あの時ばかりは華夜理の為にこの家に彼らを迎え入れた。とは言え、看病や家事に役立つのは晶の母であり、父のほうは時折、華夜理の様子を見に来る程度のものであった。
自尊心と独立独歩の気概に溢れた晶が、稀に見せた譲歩を、華夜理は今でも感慨深く思い出す。そして普段はデパートやファッションビルなどの喧騒を厭う晶が、華夜理が快癒してから買ってきたのがそのショールだった。手に触れると滑らかで柔らかで陶然となる触り心地だ。そして華夜理の今日の黒い着物地に、その淡い空色は大層、映えた。華夜理は部屋を出て座敷の横の縁側を進み離れへと続く渡り廊下に出る。叔母たちが滞在した時にはこの離れが使われた。家事を万事、取り仕切る晶もさすがに離れまでは掃除が行き届かず、叔母が張り切って清潔な空間に整えた。
この渡り廊下と座敷の縁側からは池が見える。近くを流れる小川の水を引き込み、また池の外に流れ出て小川と合流している。だからこの池には錦鯉もいれば時には鮎の姿が見られることもあった。池の周りには花崗岩が置かれ細かな雲母の光が見える。
上を見れば空は透き通った縹色をしている。
まるで晶みたいだわと思いつつ、華夜理は着物の上からショールをしっかり巻きつけ、渡り廊下の前に置かれた下駄を履く。下駄は二足あり、両方とも鼻緒は灰紫の色をしている。塗りは黒だ。
かこ、かこ、と音を立てながら竜宮の髭などの草を踏み分けて行く。庭の管理は専門の業者に任せてあり、池もその一環だった。
松の黒々とした幹や桜のごわついた樹皮などを見ながら、華夜理は池に近づく。池の傍には石灯籠が二つ、厳めしく並んでいた。
華夜理が池に近づくと、気配を察知した鯉が寄ってくる。
何も持っていない手で水面を音高く乱せば、鯉は餌が与えられるものと思い、口を水面に出してぱくぱくさせるのだ。その様子が可愛い。もちろん華夜理は、ちゃんと鯉の餌を用意してきていた。素手で意地悪したあとは、ごめんね、と言って餌を撒く。池の水の冷たさが、今になって身に沁みるようだった。往々にして鯉は食欲旺盛なのだが、やはりこの寒さのせいか、まだ動きの緩慢な者もいて、餌への反応も鈍い。
(寒いのは辛いものね)
華夜理は心の中で呟く。
池の面は小川の水を引いているゆえか透明度が高く、藻も余り繁っていない。
そしてその底にはビー玉やおはじきが幾つも落ちている。全て華夜理が投げ入れた物だ。今日も華夜理は餌を持つ手とは逆の手に、ビー玉の入った臙脂色の袋を持っていた。臙脂色から出されたビー玉が弱い陽光を反射してきらりと光る。この輝きが、水中に沈む瞬間を見るのが華夜理は好きなのだ。鯉たちに当たらないよう、注意しながら青いビー玉を一つ、投げ入れた。ぽしゃん、という音と共にそれは華夜理の目に光の残像を映して水底に沈んだ。きらきらと。
寒風が吹く。華夜理の長い黒髪を揺らす。
華夜理はもうすっかりビー玉を投げ入れることに夢中になっていた。
小さなくしゃみが出るのと、晶の声が響いたのは同時だった。
「華夜理!風邪をひくよ」
強張った顔の晶に対して、夢から醒めたように華夜理は答えた。
「晶…。今日は、早いのね」
「いつもより一本早い電車に乗れたからね。それに職員会議で、ホームルームがほぼないに等しかった。おいで」
華夜理は大人しく渡り廊下に立つ晶の元に向かう。向かいつつ、まだビー玉に未練があり、振り返り振り返りする。
「冷えてるじゃないか」
華夜理の頬に手を当て、晶が詰るように言う。心配の余り、気が急いているのだ。
「とても綺麗だったのよ、晶。きっと天の川の輝きにも負けないと思うわ」
「華夜理の、昔からのお気に入りだからね」
晶は諦めたように笑い、妥協して華夜理に話を合わせた。
ビー玉やおはじきを池に投げ込むのは、華夜理の小さな頃からのお気に入りの遊戯だった。晶も昔はそれに付き合っていたが、今ではしない。ただ従妹の夢想的趣味が、彼女を病身にしなければ良いとばかりを念じていた。
「さあ、早く中にお入り」
「プラネタリウムにはいつ連れて行ってくれる?」
「週末にでも行こうか」
「嬉しい!」
「でも」
ここで晶は怖い顔を作る。
「熱を出したら中止だからね。よくよく、健康に気をつけるんだよ、華夜理」
華夜理は聴き慣れた晶のお小言にビー玉を弄びながら頷く。
ビー玉は華夜理が成長するにつれ、凝った意匠の物となり、瑠璃紺に白い筋が入った物や小さな赤い花が入った蜻蛉玉めいた物まで種々あり、それは池に投げ込むのに勿体ない程だったが、晶は華夜理の気が済むように容認していた。
ともかく今は華夜理を早く暖かい部屋に連れて行かなくてはならない。この病弱な従妹が風邪で寝込む度、そして肺炎にまで悪化する度、晶は彼女を喪うのではないかという怯えに憑りつかれるのだ。凡そ何でもこなしてみせ、内外の評価も高い晶は、脆弱な少女の存在一つに感情を支配されていた。