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瑞穂は華夜理の部屋の襖を閉めた時と同様、異様なくらい静かに自室の襖を閉めた。それから、持っていた英語の問題集を畳に投げつける。
唇をきつく噛み締めて、表情だけは氷のようで。
噛み締め過ぎた唇からぷつりと血の珠が出来る。血赤珊瑚のようなそれは瑞穂の唇からつうう、と顎まで滴った。獣を屠って喰らったあとのようと言うよりは、吐血した重篤患者のようだ。
瑞穂の中には嵐が吹き荒れていた。
なぜ、これ程まで心が荒れるのか、理解しないような愚かな少女ではない。
浅葱が華夜理に向けていた親しげな笑み。
穏やかで、優しくて。
瑞穂は唇だけでは飽き足らず、右手親指の爪も噛んだ。きつくきりきりと。
爪が剥がれそうな痛みを訴えても、尚止めることをしない。
しばらくそうしていたあと、瑞穂は、ふ、と身体の力を抜いた。
それから部屋の襖を再び開けて廊下に出ると、晶の部屋に向かった。
寝る前に読書をしていた晶は、無言で襖を開けた瑞穂に驚いた。
瑞穂は長袖のTシャツにスウェット、晶はパジャマにカーディガンを羽織っている。互いに寝間着姿だ。
華夜理の部屋に比べれば簡素な晶の部屋に、瑞穂は無言のまま踏み込む。
「糸魚川さん、どうした、」
瑞穂は答えず、布団の上に片膝立てていた晶に触れ、押し倒した。
「の」
晶は混乱の極みだった。押し付けられた唇からは血の味がして、只事ではないと察せられた。晶は瑞穂の両腕を掴んでもぎ離そうとした。けれど瑞穂は渾身の力を籠めて晶を押さえつけており、容易に離せない。無言の格闘が続いた。それでもやっと晶が身体の自由を取り戻した頃には、二人共、肩で息をしていた。
「……浅葱と何かあったの?」
「…………」
瑞穂は黙っているがそれくらいしかこの暴挙の理由が考えられない。
瑞穂が何か言おうとして口を開き、こぼれ出たのは嗚咽だった。
止めようとしても涙が幾筋も流れて止まらない。
晶は少し躊躇ったあと、彼女の身を緩く抱き込んだ。
恋より親愛の感じられる仕草で。
暴れるかと思った瑞穂は大人しく晶に身を委ねている。
晶は今、一番瑞穂に言うべきだと思う言葉を言った。
「浅葱は糸魚川さんのことが好きだよ。彼のピアス、知ってるだろう?あれには君との恋愛成就の願が掛けられてる」
「月島君は誰にでも優しいわ、あのお姫様にも」
低く鋭く、濡れた声で瑞穂が反駁する。
「それは従兄妹で幼馴染だからだ。君はどうなの、糸魚川さん」
晶は丁度肩口に顔を置いた瑞穂に尋ねた。
「君は誰よりも浅葱を選んでいると彼に伝えたのかい」
瑞穂はそれには答えず、晶の緩い抱擁を解いて立ち上がると、何も言わずに部屋から出て行った。
まだ鉄錆びの味がする唇を、晶はぺろりと舐める。
「薬が効き過ぎてるようだよ、浅葱」
苦笑して、晶は独りごちる。
直情的な浅羽に対して、浅葱は思索家だ。瑞穂を急き立てる何かをしたのだろうが、こちらに余波が及ぶようなことは止めて欲しい。
折しも晶は華夜理のことを好きだと認めたばかりなのに、違う女の子にあっさりと唇を奪われてしまった。
不甲斐ないことだと思い、華夜理の唇を思い出す。
あの一対の桜貝は、どんな味がするだろう。




