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礼装の小箱ならぬ迷走の小箱に入り込んだ気分だった。晶は教科書をめくる手を止めて思考に耽る。正確に言うなら、問題を解きながら彼の心はより大きく、且つ難解な問題を解こうと苦闘していた。それに真正面から取り組む為の、思考をより優先したのだ。
自分にとって華夜理は従妹であり。
自分にとって華夜理は幼馴染であり。
妹であり。
そうやって並べ立てた言葉は空々しく、晶はついにそのボーダーラインを越えたことを自らに認めた。
即ち華夜理に恋愛感情を抱いていることを。
もう、いつの頃からか解らない。
そんなにずっと以前から、その感情は自分の中に在ったのだ。
根付き、芽吹き、それが今ついに開花しただけなのだ。
では華夜理は?
華夜理が自分を慕う感情は刷り込みの他の要素があるだろうか。
――――――恋情というものが、あるだろうか。
〝舐めて〟
あの血の甘美と華夜理の表情が忘れられない。あの表情を恋する少女のそれとして当てはめて良いものか。
晶はじっと考え込んだ。深海に棲む魚が身じろぎせずにいる様子に似ていた。
その晩、華夜理の部屋を訪ねたのは浅葱だった。
夜に月島家の双子が華夜理の部屋を訪問することは、最早、晶にも公認されるところとなっていた。
縁が青い硝子の金魚鉢を少しの間見つめると、浅葱は言った。
「じゃあ、柏手さんと出掛けた途中から帰るまでの記憶が抜けてるんだね?」
「そうなの。自分でも、何が何だか解らなくて」
「……華夜理」
浅葱がこの上なく優しい表情で華夜理の名を呼ぶ。唇に笑みを刷きながら。
「その症状は、きっといずれ解決する。夢遊病と同じように。けれど昼間に外出するのは、もうやめておいたが良いね。晶や、僕たちと一緒ならともかく」
華夜理の両親の交通事故は、華夜理の心をひしゃげた果実のように歪ませた。
歪みは未だに華夜理の中に息衝いている。
夜に、昼に。顔を覗かせる歪み。
美しくも痛ましい。
だが浅葱は、その歪みは正されると思っている。
正されて、この華のような少女は正常を得るのだ。
清浄の中に正常が戻る。
鍵になるのは、晶だ。
晶でなければならない。
襖の向こうから瑞穂の声がした。
「華夜理さん?英文で解らないところがあるんだけど……教えてもらえる?」
相変わらず無愛想な声だが、こんな些細なことでも自分を頼ってくれるようになった瑞穂を華夜理は嬉しく思う。
「糸魚川さん。どうぞ、入って。今、丁度、浅葱が来てるの」
「……月島君が。じゃあ、出直すわ」
凍ったような沈黙のあとに低い声で瑞穂が言う。
「僕のことなら気にしないで。糸魚川さん」
「…………」
襖を開けた瑞穂が目にしたのは、親しそうに身を寄せ合う華夜理と浅葱の姿だった。
浅葱が立ち上がる。
「僕が見るよ。どの問題が解らないの?」
「……ここの英訳が」
「ああ、それはね」
浅葱の吐息が瑞穂に近い。瑞穂の顔は凝固している。
問題を解決した瑞穂は、そのまま部屋を一切、振り返らずに襖を閉めた。銀の薄と鷺が動く。
閉める音は静かだった。まるで何かを堪えるように、慎重に。
彼女の別の問題は解決されないままだった。
浅葱が意味ありげに微笑んでいるのを見て、華夜理が小首を傾げる。
「どうしたの?」
「うん。僕は皆に思われてるより狡い男なんだよな、と思って」
華夜理はそれでも不思議そうに瞬きした。
「浅葱は狡くなんてないわ」
「狡いよ」
言って浅葱は瞳をますます湾曲させる。瞳に宿る輝きは策謀と狡知の証。
そう。
瑞穂の心情を、解った上で浅葱は今夜、華夜理の部屋に来た。
瑞穂がきっと穏やかでない気持ちになるであろうと知った上で。
更に、自分の、または浅羽の存在、或いは龍の存在が晶にとって起爆剤になればと願ってもいた。
冷たい月を食むように、策略の裏で少年は微笑む。