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梅と万作、馬酔木を抱えた晶が玄関に入った時、華夜理の草履の位置が家を出る前よりやや動いた気がした。
病院で貰った温湿布と軟膏の入った袋を座敷に置き、華夜理の部屋に向かう。
「華夜理?ただいま。戻ったよ」
「晶。お帰りなさい」
答える声はどこか虚ろでぼう、として聴こえた。
「花を買ってきたよ。梅と万作と馬酔木」
「庭に蒲公英は咲いてるかしら?」
「さあ、早咲きのならあるかもしれない。今から一緒に探しに行く?」
二人の会話はどこか余所余所しく響いた。
華夜理の声に含まれる後ろめたさを、晶は敏感に感じ取った。
「開けて良い?」
「……良いわ」
華夜理は付書院の前に座り込んでいた。晶の顔を直視しようとしない。
「……僕のいない間、一人で出掛けた?」
「晶。ごめんなさい。柏手さんが来たの。一緒にパッチワークキルト展に行かないかって誘われて」
「行ったんだね」
自分の声が冷たくなったことを晶は自覚した。
華夜理も気付いたようで、おどおどとした視線を晶に向ける。
「私は、晶に負担を掛けたくなくて」
晶に自由になってもらいたくて――――――。
「それが柏手さんと出掛けることにどう繋がるの。そもそも僕は華夜理のことを負担になんて思ってない」
気をつけてはいたが責める口調になったのは否めなかった。華夜理が傷ついた表情を見せる。晶は心の中で性急な自分自身に舌打ちした。
「――――ごめん。責めてなんていないんだ。外に出た華夜理が心配で、つい」
「晶。私、変なのかも」
「え?」
「柏手さんと出掛けてパッチワークキルト展を観た。そこまでは憶えてるの。でもそのあと、どうやって家に帰ってきたのかが解らなくて。気付くとこの部屋にいたのよ」
記憶の混乱、欠落。やはり恐れていた事態が起こったのだと晶は知る。龍は幼児退行したであろう華夜理をどう思っただろうか。これを機に、諦めてくれれば良いのだが。
「華夜理」
呼んで手を伸ばすとびくりと華夜理が肩を竦めた。構わず、その頭を撫でる。ふわりと、暖かな空気を孕むように。
恐る恐る目を開けた華夜理の前には、いつも通りの優しい従兄弟の顔があった。
「おいで。庭に蒲公英を探しに行こう。ショールを羽織るのを忘れてはいけないよ」
「うん」
華夜理はそれで全てが落着したかのように安堵した表情を見せ、頷いた。
先程までの晶に、嫉妬の気配を感じたのは、きっと気のせいだったのだろう。
下駄はまだ脚に響くので、晶は玄関からサンダルを履いて渡り廊下のほうに回った。華夜理は既にショールを羽織り、下駄を履いて待っている。天気が気になるのか上空を仰いで。その時雲に切れ間が射し、天使の階梯が現れた。燦々と注ぐ陽の柱の中に立つ華夜理は神々しく、晶は目を細めた。華夜理が晶に気付き笑顔になる。
「晶」
「行こうか」
「うん」
池の周囲に置かれた花崗岩の雲母が日を受けて光っている。
松の樹影はいよいよ色濃く、桜は咲く兆しを見せている。
華夜理が早速、桜の樹の根本に蒲公英を見つけた。晶に向けて、誇るようにそれをかざして見せる。
晶も微笑んで頷いた。
「これで部屋も明るくなるわ」
「玄関の花も活けてくれるかい?今はとりあえずバケツの水に浸けてあるから」
「ええ、もちろん」
「馬酔木は毒があるから用心するんだよ」
「解ってるわ」
毒があるから。
晶は自分の言葉を反芻する。
本当に毒があるのは自分自身だ。嫉妬という名の毒で、先程、華夜理に当たったではないか。
一見、無害に見えて毒がある。
自分も馬酔木と同類なのだ。