其ノ丗伍
龍の声を聴いて、華夜理は驚愕し、狼狽えた。なぜ今、彼がここにいるのだろう。
昨日の今日だ。華夜理は獰猛な獣の前の小動物になった気分がした。
「開けていただけませんか」
「……嫌です」
「どうして?」
「貴方、怖い」
龍の朗らかな笑い声が聴こえた。
「何もしませんよ。――――開けていただけませんか?」
今度は先程より丁寧に、下手に出る口調で龍は言った。
華夜理は観念して、引き戸の鍵と引き戸を開けた。
悪魔は優美な声で人を惑わすと思いながら。
龍は今日もツイードの三つ揃えを着ている。着る相手によっては〝着られる〟物となってしまうそれを、龍は見事に着こなしている。午後の柔らかな光が、彼の後ろに撫でつけた髪を明るい色に染めていた。
「実は顧客からデパートの特別展示の無料券を貰いまして。世界のパッチワークキルト展なのだそうです。華夜理さんとご一緒に、と思いまして」
「ごめんなさい、行けません」
「どうして?」
「行きたくないからです。そ、それに、そういうのは恋人と行くものでしょう。私には晶がいます」
龍が微苦笑する。どこかそれは悪戯を隠そうとする子を宥める大人のような笑みだった。
「彼は貴方の恋人じゃないでしょう?」
「いいえ、そうです」
「私の手前、そう言い繕っているだけだ」
「違います」
「この世は全て舞台、人間誰しもその舞台で演じるただの役者」
「え?」
「シェイクスピアです。華夜理さん。今の自分が彼に負担を掛けているとは思いませんか」
まさに痛いところを突かれ、華夜理は目を見張る。
「今のままでは貴方は、いえ、貴方たちは依存し合った不健全な関係のままだ。華夜理さん。貴方はもっと広く世を知る必要がある」
〝自分のアイデンティティーまでを譲り渡してはならない〟
暁子の言葉を思い出す。不健全――――。
「手始めに私と踏み出してみませんか、外へ」
もし龍と親密になれば、それは晶の解放に繋がるだろうか?
「そのままでは寒いかもしれない。あの、空色のショールを羽織ってきてください」
空色のショール、という言葉が強調されたように、華夜理には聴こえた。どこか意味深に。
俄かに反抗心が湧く。
華夜理は部屋に取って返し、淡紅色の道行を着ると、玄関に引き返した。
デパートまでの道のりは混んでいて、タクシーのメーターを華夜理は気にしたが、龍はどこ吹く風といった様子だった。
「そうですか。高齢化で運転手も減っているんですね」
「ええ、株主が、これじゃ利益が上がらないってんで大会社に身売りしたりして」
華夜理にはよく解らない話題を、龍は運転手と話している。龍はいるだけで他を圧する、或いは巻き込むオーラがある。隣に座る華夜理は、龍のオーラに自分が浸食されそうで怖かった。ウィンカーのカチ、カチ、カチ、と鳴る音が、自分の心臓の鼓動と重なるように感じた。
老舗デパートの六階にある展示会場は思ったより混んでいた。平日ではあるが、主婦層が多く足を運んでいるようだ。自分もパッチワークする人が多いのだろう。
会場に一歩、踏み入るなり、華夜理は色彩の洪水に圧倒された。
巨大な布に描かれた絵画が、そこにはあった。ある物は樹木を表わし、ある物は海を表わし。または抽象的で精緻な色の遊びがあり。
家事の合間に。子供を寝かしつけたあとで。布と針を持つ女性の姿が見えるようだ。ここまでの作品を完成させるまでにどれだけの手間と時間が掛かったか、想像するだけで気が遠くなりそうだ。
華夜理は実際、人混みに酔いかけていた。
気付いた龍が、さりげなく会場の隅に彼女を連れて行く。
「――――気分が悪いですか」
「いえ、色んな色が綺麗なんですけどぐるぐるして」
「人に酔ったのかもしれないな。出ましょう」
「大丈夫、お父さんが迎えに来てくれるから」
最後の台詞に、龍は思わず華夜理を見下ろした。
華夜理は蒼褪めた顔で、それでも微笑んでいる。幸福そうに。




