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その場に流れた空気の余韻を振り切るように、晶は立ち上がると、救急箱を持ってきて、華夜理の指の手当をした。
手早くそれを終えると、脚を引き摺りながら座敷をあとにする。
今、この場にいたままではまずい気がした。
何か取り返しのつかない酷いことを華夜理にしてしまいそうな。
舐め取った紅にはそんな作用があったのだろうか。
華夜理は存在だけでなく血さえ甘美で、晶は酩酊して溺れることを恐れた。
晶を見送った華夜理は絆創膏の貼られた指を見た。
今、自分は何を言ったのだろう。
晶に何をさせたのだろう。
思い出すとかっと身体が熱くなる。血を舐めろと乞うとは、尋常ではない。いや、華夜理は乞わなかった。命じたのだ、晶に。そして晶はそれを受け容れた。
とくとくとくとく、と胸の音が鳴る。
(違う、私、晶を見下したりなんてしてない)
ではなぜ血を舐めさせたのか?
(……晶に、私の味を知って欲しかったから)
これは瑞穂の言っていた免罪符の範疇に入るのだろうか。
暁子は晶の退院を殊の外、喜んだ。
彼が華夜理を囲い込もうとしているとしても、あの叔父や叔母に比べればはるかにましというものだ。
いつもの勉強部屋で、四角い漆黒の卓に教材を広げた華夜理に、にこやかに言う。
「良かったですね、華夜理さん」
「はい……」
ところが肝心の華夜理の元気がない。黄色い着物に締めた赤い帯を先程からさすっている。
「お腹でも痛いですか?指を怪我したみたいだけど」
「いいえ。……赤い色が罪だと思っただけです」
「罪?」
「安西先生。――――どんな状態だったら人は恋してると言うんですか?」
「…………晶君のことですか」
「…………」
華夜理は答えずに俯く。
「華夜理さん。私は貴方に学問を教えることしか出来ません。恋愛は専門外です。ですが憶えておいてください。どんなに恋しい相手でも、自分のアイデンティティーまでを譲り渡してはならないことを」
違う、違うの、と華夜理は胸中で叫んでいた。
逆なのだ。
自分が晶を欲しているのだ。彼のアイデンティティーをも貪欲に欲しがっているのだ。
けれど華夜理はそれを説明することが出来ず、悄然として英文和訳に取り組んだ。
暁子が帰り、昼食の段になって、晶も華夜理も朝のことは何もなかったように振る舞った。
紫蘇と梅干、海苔が入ったにゅうめんに、出汁巻き卵が添えてある。風邪が治ったばかりの華夜理を気遣っての献立だと知れる。華夜理は朝よりはずっと落ち着いた気持ちで昼食を摂ることが出来た。
「午後、僕は病院に行ってくるから」
「しばらく通院するの?」
「うん」
「そう。解ったわ。あ、玄関のお花がもうないの。病院のすぐ近くにお花屋さんがあったでしょう。脚に負担がないようだったら、手頃な花を買ってきてもらっても良いかしら」
「良いよ」
「……脚に負担がないようならよ?」
「解ってるよ」
晶が笑う。
「松と菊は、小振りの花瓶に移すから」
「うん。任せた」
このリズムだ、と華夜理は思う。長年、晶と築き上げてきた平穏なリズム。今朝は何かの拍子でそれが狂ったが、こうしてまた正常に戻った。自分と晶はこれまで通りやっていける――――――晶を解放しなければ。
免罪符は恋だと言ってのけた瑞穂の言葉が蘇り、華夜理はかぶりを振る。
「華夜理?どうしたの?」
「ううん、何でもない」
日常のリズムを取り戻すことに力を入れたのは華夜理だけではなかった。晶もまた、緊張していることを華夜理に知られないように振る舞っていた。そうして晶はもう、二人の関係が臨界点に達していると悟っていた。
晶が病院に行って少し経ってから、呼び鈴の音が鳴った。
華夜理は『啄木全集』を読んでいるところだった。
晶が忘れ物でもしたのだろうかと思う。鍵や、スマホなど。
華夜理は本を閉じて、部屋を出て玄関に向かった。
「はい、晶?どうしたの?」
しかし帰ってきた声は。
「華夜理さん、こんにちは。私です。柏手龍です」