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これが間宮小路晶か、と瑞穂は思った。着替えてから、座敷で彼女は屋久杉の卓を挟んで晶と対面した。晶はまだ正座が出来ず、右脚を投げ出した状態だ。だがだらしないという印象は全く受けない。
細い銀縁眼鏡の奥の瞳は聡明さを物語り、容姿や佇まいは端整だ。
浅葱が信頼するに足る少年だと瑞穂は判断を下す。加えて晶は、夕食の用意までもう済ませたようだ。この如才なさは浅葱をも超えるかもしれない。瑞穂は自分が晶に感心していることを悟られまいと、素っ気なく言った。
「聴いてると思うけど、糸魚川瑞穂よ。お風呂を沸かすから、入って頂戴。患部を温めることが大事なんでしょう?」
早急に端的に、必要事項だけを述べる。
晶が双眸を細めた。
「間宮小路晶です。改めてありがとう。糸魚川さん。僕の留守中、華夜理の世話をしてくれて」
「特に何もしてないわ。でもこれで、あたしの役目も終わりね」
「それなんだけど……」
晶が言いにくそうに言葉を切る。
「僕の脚が完全に治るまで、うちにいてはもらえないかな?今の僕と華夜理だけでは行き届かないところがあるから。通学には不便になるだろうけど……」
「…………」
ふと横を見ると、華夜理が喜びの表情で晶の提案を聴いていた。
ここにいると自ずと浅葱と顔を合わせる機会が増えるだろう。まさかそれを見越しての発言ではないだろうが、瑞穂は躊躇した。
「でも……」
「衣食住、出来る範囲で全てこちらが負担する。今ある衣類だけなんかだと足りないだろうから、今からタクシーで家に取りに戻ってもらっても構わない。もちろん、タクシー代はうちが出すよ」
「……冷蔵庫の中身の処分をしなければならないわね」
瑞穂もとうとう、観念した。
彼女が一時帰宅する間、華夜理が風呂を沸かした。着物の上から割烹着を被り、石造りの浴槽を磨いて、湯を溜める。こんなことも、普段なら晶がしていることだった。晶が嫌がらなければこれからは自分がしよう、と華夜理は決意する。けれどその前に、晶がうちからいなくなるかもしれない。華夜理はその可能性を思い、たわしを持った手を見下ろし悄然とした。
座敷に戻ると、相変わらず右脚を投げ出した姿勢で、晶が座っていた。温湿布の匂いがつんとする。
「どうして糸魚川さんを引き留めたの?」
「浅葱の恋の援護射撃と。華夜理に友達を作って欲しくてね」
「糸魚川さんは私のこと、嫌いだわ」
「さあ、それはどうかな。僕が見たところ、彼女は素直な性分とは程遠いみたいだし」
「晶」
「うん?」
「あのね、私ね」
「うん」
日は既に落ちて電灯の明かりが二人を照らし出している。
明るく照らされた晶の穏やかで優しい顔に、華夜理は何も言えなくなる。
「……何でもない」
「何だい」
晶は笑った。
この笑顔も。優しさも。声も。
全てを遠ざけることが自分に課せられた義務だとしたら、余りに辛い。
華夜理は込み上げる涙を誤魔化す為、その場から立ち去った。
そんな華夜理の後ろ姿を、晶は無機質な目で見つめていた。
瑞穂は二階の、晶の隣の更に隣の部屋を使うことになった。すぐ隣室にしなかったのは、男女という性別を考慮してのことだ。
その部屋も畳を去年張り替えたばかりで、青い匂いが鼻を突く。部屋には机と椅子が置かれて、勉強するにも不自由がない。持って来た衣類は当然のように鎮座する立派な箪笥に入れる。各部屋がこのように整っているのだろうか。和風旅館のような家だ。
就寝前に明日、学校に持って行く教材のチェックをしていたところ、襖がとんとんと叩かれた。
「糸魚川さん。起きてる……?」
「起きてるわよ」
「入っても良い?」
「ここ、貴方のうちでしょ。好きにしなさいよ」
言いながら瑞穂は苛々した。このお姫様のような少女の、こうしたまだるっこしさが嫌いだ。また頬を引っぱたいてやりたくなる。
入ってきた華夜理は、見慣れた浴衣に丹前姿だった。
「まだ大人しくしてたが良いんじゃないの。熱がぶり返すわよ」
「糸魚川さんに、相談があって」
「――――――何よ」
生温いことを言うようなら、本気で叩く積りで瑞穂は尋ねた。
華夜理を正視すると苛立つので、瑞穂は視線を障子のほうに遣った。
今日は星が出ているだろうか。月はどのくらい満ちているだろう。
思考をも華夜理から逸らす。
「私が晶を自由にすること、どう思う?」
「は?」
瑞穂は思わず華夜理を真正面から見てしまう。
華夜理は正座した脚の鉄線の柄をなぞるように見る。
「今のままだと、晶は私に縛りつけられてしまう。そんなこと、私は望まない」
「……貴方、そのこと彼に話した?」
「ううん、まだ」
「そう。良かったわね。話さないほうが良いわよ」
「どうして?」
「望みもしないことを大事な相手から聴くことは辛いわ。怒りを招いても不思議じゃない」
「私は晶の幸せを望んでいるの。今のままではそれが叶わない」
瑞穂が大きく溜息を吐いた。どうして自分がこんな役回りになるのかと思いながら。
(やっぱり引っぱたいてやりたい)
ぐっと右手の拳を握り締める。この白い頬を真っ赤に腫れ上がらせたらさぞ胸がすくだろう。
「貴方の感じている罪悪感の、免罪符が一つだけあるわ」
「それは何?」
「恋」
低い声で簡潔に、ひどく無味乾燥に瑞穂は言い放った。