其ノ丗壱
「僕があげた物ですよ」
窮地に陥った華夜理の目に、今、一番に逢いたい人の姿が飛び込んできた。
華夜理は願う余り、自分が幻を見ているのではないかと思った。
晶は濃紺のジャケットを着て、池の傍に足を引き摺るように佇んでいた。
後ろには石灯籠がある。
「君は?」
龍が尋ねる言葉には、さながら狩りを邪魔された者の軽い憤りがあった。
「間宮小路晶です。母たちが、お世話になっています」
「そうか。間宮小路さんのご子息か」
そうか、ともう一度呟くと、龍がさて、この闖入者をどうしようかと思案する顔つきになった。彼が結論を出す前に、晶が華夜理の前まで来て、彼女の身を龍の身体の囲いから穏やかに引き出す。まるでワルツを踊るように。
「今日はもうお引き取り願えませんか、柏手さん」
「その前に君と華夜理さんとの関係を聴いても良いかな」
「従兄妹です。――――相愛の」
「相愛?」
気に喰わない単語を聴いたように、龍の片眉がぴくりと動く。
「ええ。ですからこの見合い自体、破談になるでしょう。柏手さんには無駄な御足労をお掛けしました」
「……私はそうは思わないな。その証に見てごらん、華夜理さんは驚いてるじゃないか。つまり、君の言ったことは虚言だ」
華夜理は我に帰って龍に反論した。
「い、いいえ。私は晶と付き合ってます。彼の言ったことは本当です」
晶を自由にする云々の思考も何も、この時の華夜理には抜けていた。
ただ、この局面を乗り切ろうと必死だった。
くく、と龍が笑いを洩らした。
「華夜理さんは嘘が下手だ。可愛らしい。ますます、欲しくなりましたよ。今日のところは王子様に免じて退散しますが、またお目に掛かります」
そこに、華夜理と龍の様子が気になって仕方のない栄子が出てきた。庭に下りる下駄は二足しかないので、派手な紫のパンプスを履いている。玄関から回り込んで来たのだろう。入院している筈の息子の姿を目の当たりにして驚く。
「晶……!貴方、どうして」
「お久し振りです、お母さん。捻挫も、慢性期に入ったので、帰宅の許可が出ました」
久し振り、という言葉に、華夜理は気付く。栄子は事故で入院した息子の見舞いに、ただの一度も行かなかったのだ。その事実に、憤りが湧く。
栄子はあれこれと龍に対して言い訳をしているが、龍は最早、用はないとばかりに帰る気配を見せ、やがて渡り廊下から屋内に消えた。追いすがるようにそのあとを追った栄子だが、結局、龍は帰ったのだろう。また庭に戻ってきた。その間、ずっと華夜理は晶のジャケットを握っていた。
「全く、何てことをしてくれたの、貴方たちは!」
激昂した栄子に晶は冷たく返す。
「それよりもう荷物をまとめて帰る準備をされてはどうですか、お母さん。僕が戻ったからには、貴方たちの存在は無意味です」
「親に向かって何て口の利き方を…………っ」
「親?貴方が僕に親らしいことをしたのは、いつが最後でした?まあ、それは良い。華夜理を、ここまで追い詰めた貴方たちには一刻も早く立ち去って欲しい」
それから晶は冷風から温風に切り替わるように、華夜理に笑いかけた。
「ここは冷える。早く中にお入り、華夜理」
「うん。うん。晶もね」
華夜理は栄子をちらりと見ると、身を翻して渡り廊下に向けて駆けた。
今日は真紅のコーディネートの、栄子の肩は屈辱に震えていた。華夜理は活火山を連想し、その怒りに怯えた。
慎一郎と栄子は、夕刻には間宮小路家を引き揚げた。
晶は庭で栄子と話した以外、ついに両親と口を利くことはなかった。
親子の完璧な断絶をそれは意味していた。
華夜理と晶は、座敷で久し振りの歓談をする。華夜理は屋久杉の卓に両肘をついてにこやかに尋ねる。今ここに、晶がいることが嬉しくてならないのだ。
「退院して大丈夫だったの?」
「捻挫は最初は冷やすのが大事だけどね、慢性期に入ると温めることが大事になるんだ。お風呂とか、湿布とかで」
「慢性期って?」
「捻挫して四日から七日後だね」
「浅葱はそれを知ってたのね」
「うん。僕から電話した時、浅葱に華夜理の見合いの話を聴かされた。それで先手を打って、医者と掛け合い、退院出来るようにしてもらったんだ。幸い靭帯まで損傷していなかったから、セルフケアの許可はスムーズに下りた」
そこから少し間が空いた。華夜理は卓の赤茶色を撫でながら、問い掛ける。
「――――相愛だって」
「華夜理は僕が嫌い?」
「好きよ?」
「じゃあ、良いじゃないか」
肝心のところではぐらかされた気がする。
それでも、肝心のところで迫られずに安心している自分もいる。
自分は晶とどうありたいのだろう。
彼を解放したいと思うのだけれど。
解放したいと思う。
(本当に?)
ならばなぜ、今すぐにでもその話を切り出さないのだろう。
晶が先程からずっと華夜理を凝視している。
「小箱に入れたら華夜理は安全だと思ったのに。あちらからもこちらからも手が出るな」
華夜理には何の話か解らない。
「その着物も綺麗だね。…赤い帯のアクセントが、よく効いてる」
やがて瑞穂が帰宅する。
晶はおもむろに立ち上がると、多少、足を引き摺りながら、夕飯の支度に取り掛かった。