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浅葱たちが出て行った襖を、華夜理は眺め遣った。襖に描かれた薄と鷺を、もう何度見つめたことだろう。
「落ち着きがねえな」
浅羽が茶化すように言う。
「だってあの二人……、どうしてるかと思って」
「浅葱が口説いてんだろ、糸魚川を」
「浅葱って、やっぱりそうなの……?」
「ん。これの」
そう言って浅羽が耳朶を指す。
「願掛けの相手な」
「糸魚川さんは?」
「知らね。俺、あの女苦手だもん」
そうは言うものの、恐らく浅羽も勘付いているのではあるまいかと華夜理は思った。瑞穂も浅葱を好いていることを。
さぞかし、自分の存在は不快だったろうと顧みて思う。自分の想う相手に、女の子の世話を頼まれる。それを撥ね退けなかったことこそが、瑞穂が浅葱を好いているという何よりの証ではないだろうか。そしてそれゆえにその頼みを呑むことは、苦痛だっただろうと華夜理は思う。
「なあ、華夜理」
「なあに」
「アートアクアリウムを作ってやろうか」
華夜理がきょとんとする。
「丸と、三角と、八角形の、派手な奴」
「赤や青紫やピンク、緑の?」
「そう」
にっと浅羽が笑う。彼特有の、悪戯っ子のような表情だ。
華夜理も笑った。
「良いわ。遠慮しとく」
「晶が作るのじゃないと駄目ってか?」
華夜理がはにかむように俯いた。
「約束したもの」
「ふうん……」
やがて浅葱と瑞穂が戻ってきた。二人の雰囲気にそれまでとは違うものを浅羽も華夜理も感じながら、彼らを出迎えた。空調を入れていなかった応接間は冷えていた筈だが、二人共、そんな印象を微塵も感じさせない様子だった。
その後、浅葱も浅羽も帰った。
翌朝は華夜理のほうが瑞穂より早く起きた。段々、生活リズムが以前と同じに戻りつつある。瑞穂を起こさないように着替えをする。深緑色の大島紬に、白い大輪の花が咲いた真っ赤なアンティ―クの帯を締める。淡いピンクの帯締めに緑と紫の混じった七宝の帯留め。あえて渋い色合いを選んだのは、今日、対面することになるであろう見合い相手に軽んじられない為だった。
それからそっとステンドグラスの電気スタンドを付書院に持って行く。
今日は『啄木全集』を読もうと思う。
明治の歌人・石川啄木は天才肌でありながら、人格は余り褒められた人ではなかったらしい。いつか晶が苦笑混じりにそう話していた。けれど華夜理は、彼の歌が好きだった。だから小説も面白いかと思い、『雲は天才である』等の小説が所収された『啄木全集』第三巻を読んでみたのだが、どうにも難解でよく解らない。歌はあんなに率直で入りやすいのに、と華夜理はがっかりした。
「そんなもの読んでるの?」
いつの間に起きたのか、瑞穂が華夜理の横に立って本を覗き込んでいた。もう制服にも着替えてある。
「読んでるけど、難しくて」
「おめでたいのね、貴方」
「え?」
「今日は見合い相手とやらが押し掛けてくる日でしょう?それとも、月島君たち頼みで、余裕があるだけかしら」
「そんなんじゃ……」
瑞穂は華夜理の装いをも非難するように見つめると、朝食を持ってくるわと言った。本来なら華夜理の風邪が治った時点で、座敷で朝食を摂るのが自然なのだが、栄子たちと食卓を囲むとは、どう想像しても心穏やかでなく、華夜理は瑞穂の気遣いをありがたく思った。
瑞穂が学校に行くと、少しして暁子が間宮小路家を訪ねた。
見合いの件を聴き、ひどく心配している。
「私が午後までついていましょうか?」
「いいえ。先生には他に受け持ちの子がいるでしょう?私は大丈夫ですから」
とは言っても、暁子の目から見た華夜理は頬の肉が落ち、病やつれは明らかで、心配するなと言うほうが無理であった。自分が身内の問題に口を出すのも憚られる。暁子は無力を噛み締めながら、せめてもと午前中は華夜理の勉強の指導の合間に世間話をして、華夜理の気持ちを和ませようと腐心した。華夜理はそれをありがたいと思いつつ、緊張して強張った自分の心を持て余していた。
昼が過ぎ、華夜理の緊張もピークを迎えた頃、栄子が華夜理を呼びに来た。
先程、呼び鈴の音がしていた。見合い相手が来たのだろう。
「華夜理ちゃん?急な話だけど、今から会って欲しい方がいるの。ほら、例の釣書の。華夜理ちゃんが元気になったとお知らせしたら、すぐにでもお会いしたいと仰ってね。開けるわよ」
襖を開けた栄子が見たのは、端然と座した少女の姿だった。もっと狼狽え怯えるかと思ったのに、意外な落ち着き振りである。
「……着物の色がちょっと地味だけど、ちゃんとした恰好みたいね。今から、応接間に来られる?」
華夜理は栄子を見て頷いた。
「はい」
応接間に待っていたのは、二十代半ばから三十前半といったところの青年だった。
一目で上質と解るツイードの三つ揃えを着て、華夜理を見てにこりと笑う。
陰湿さの微塵も感じられない、爽やかな笑みだ。まだ艶やかな黒髪をワックスで後ろに撫でつけ、顔立ちは写真で見るより整い、華がある。ちょっとした俳優のようだ。加えて自信のあるオーラが全身から出ている。
「柏手龍と申します。初めまして、華夜理さん」
ジャガード織りの野の花が、完璧に龍の背景となってしまっている。金色のフリンジも彼を引き立てるようだ。シャンデリアの牡鹿は龍に跪き、壁紙の美しい花柄も、龍を彩る。
調和ではなく、付き従える人だわ、と華夜理は思った。
それだけの力を持つ相手なのだ。そして晶なら調和を望む、とも思った。
「華夜理ちゃん。柏手さんはね、お若いのに経営コンサルタントとして立派な業績を上げられているのよ。うちの会社も何度かお世話になったの」
成る程、そういうことかと華夜理は得心が行った。
そういう繋がりのある青年を、自分に宛がい、間宮小路の財産を好きにしようという。要はそんな腹積もりなのだ。
「じゃあ、あとはお決まりだけど。お二人で庭でも散策したら如何かしら」
栄子がそう締め括り、応接間から退出する。慎一郎は最初からその場に居合わせてもいない。
龍が肩を竦めた。その所作は外見より若者めいて、彼の性格の軽やかさを物語るようだった。
「華夜理さん。外の空気はまだ冷たい。何か羽織る物を持っていらしてください。僕はここでお待ちしています」
「……はい」
龍の意外な濃やかさに驚きながら、華夜理は部屋に空色のショールを取りに戻った。
渡り廊下の下駄を見て、龍は興味深げな顔をして潔く靴下を脱いで下駄を履き、華夜理の歩調に合わせてゆっくりと庭を歩いた。かこ、かこ、と二足の下駄の音が鳴る。
確かに空気は冷たいものの、確実に春の予兆を感じさせる気候だった。
「桜も直に咲きますね」
「はい」
「その頃に花見でも致しましょうか」
「…………」
龍が笑んだ。
「実のところ、間宮小路さんからのこの見合い話、私は余り乗り気ではなかったんですよ。栄子さんに押し切られたと言いますか。あんな方ですからね。正直、十六の子供を相手に何をと思いましたし」
華夜理はその言葉に安堵した。それなら見合い話がこれ以上進むこともなさそうだ。しかしその安堵は早計だった。
「ですが華夜理さんにお逢いして、気が変わりました」
「え?」
「貴方が気に入ったという意味ですよ」
調和ではなく付き従える、という語句が再び頭に浮かぶ。
「その空色のショール、とても大事に扱われていますね。誰かに貰った物ですか?」
「え……」
気付けば桜の幹に龍が手を当て、華夜理を封じ込めていた。顔と吐息が近い。