其ノ参
目を閉じると、そこには無限の宇宙が広がる。
どこまでもどこまでも果てがなく、青、白、橙、赤、黄、緑、様々な星々が輝いている。
華夜理の宇宙。
すいと指を動かすと、渦状星雲が生まれ、彗星が流れる。晶の持つ空気にも似たひんやりとした、けれど決して寂しくはない孤高の空間を華夜理は愛おしむ。
黒天鵞絨にぶちまけた砂粒のような天の川に、華夜理は思いを馳せる。そこはどんなところだろうか。水飛沫の代わりに星の飛沫が上がるのだろうか。その、上がった数粒を集め、晶にお土産にして帰ったなら、晶は喜んでくれるだろうか。
「お手が止まっていますよ、華夜理さん」
華夜理の夢想を破ったのは、おっとりした女性の声だった。
華夜理はぱちくりと目をしばたたかせる。急に現実に引き戻されたので、意識がまだついて行かないのだ。
華夜理は今、勉強部屋で家庭教師に数学の手ほどきを受けているところだった。
勉強部屋は晶と同室で、華夜理の部屋の隣にある。勉強机が二卓、置かれ、部屋の中央には四角い漆黒の卓が置いてあり、華夜理は今、教科書をそこに開いているのだった。
そういう現状を思い出しても、華夜理の夢想は止まらない。夜空を切り取ったかのようなこの漆黒の上に、星の砂を撒いたらどうだろうか。
その発想は天の川を生み出す神にも近い気がして、華夜理は興奮する。きっと晶も、感嘆してくれるに違いないのだ。
こ、こん、という硬質な音。
淡いベージュのスーツに身を包んだ女性家庭教師が、自分の持つペンの頭を卓に打ちつけた音だった。浮世離れした令嬢を、再びこちら側に戻す為に。
厳しい叱責はしないし、元より華夜理には必要ない。彼女は集中さえすれば、短時間で驚く程の勉強の成果を上げるのだから。
それに女性家庭教師――――――安西暁子自身がどこかおっとりした性格で、華夜理のペースを尊重して難無く合わせることが出来るのだ。暁子を家庭教師に選んだのは晶だが、彼は一風変わった浮世離れした従妹の為に、最良の教師を探し出したのだ。華夜理の性格を尊重しつつ、勉強を教え込むことの出来る人材。それが暁子だった。
夢想から醒めた華夜理は数式を解くことに今は集中している。
暁子は柔らかな笑みを浮かべ、彼女のそんな様子を見守るのだった。
勉強が一段落ついた頃。
華夜理が暁子に笑いかける。
「先生。錦玉の和菓子があるんです。水に閉じ込められた水仙の意匠の。お食べになりませんか?」
「まあ、素敵ですね。頂きます」
ふふ、と二人、笑み交わし、華夜理は部屋を出て行く。その間、暁子はざっと華夜理の解いた数式に目を通す。それから国語や歴史、英語、理科など他の科目にも。どれをとっても、華夜理の優秀であることは明白だった。これで身体さえ丈夫であれば有名進学校に通うことも出来たであろうに、と暁子は華夜理の為に惜しんだ。
尤もそれを、晶が望むかどうかは別問題である。暁子は晶が、掌中の珠のように華夜理を慈しむ一方で、誰の目にも晒したくないと考えているのではないか、と推測していた。それはこの家に家庭教師として通う内に、暁子の中に芽生えたものだ。彼女は晶のそうした独占欲を、微笑ましいが好ましくはないと考えていた。華夜理の笑顔を思う。見た瞬間に魅了されるような。独占したくなる気持ちが、解らないでもないのだ。
暁子が帰ったあと、華夜理は晶によって用意されていた昼食を一人で食べた。広い座敷で一人、摂る食事にも華夜理が憂うことはない。独りは慣れているし、落ち着く。唯一、華夜理にとって例外なのは晶だけだ。晶と一緒の食事であれば、一人より楽しいと思える。心が弾む。
菜の花の辛し和えの、緑色が鮮やかだ。
とりわけ視覚的な喜びを追い求める華夜理の為に、晶は万事、色鮮やかな物を華夜理の周囲に配するようにしている。それは家庭教師選びでさえそうで、晶が華夜理の家庭教師を選別するにおいて、容姿もその条件に入れていたという事実を、華夜理は知らない。
瀬戸焼の、晶の物と対になった夫婦茶碗の黄色も目に楽しい。
華夜理はただそう思うだけだが、彼女の審美眼に堪え得るよう、という晶の配慮があったこともまた、華夜理は知らない。
彼女は従兄弟の愛情に包まれ、その中で微睡みながら生きる花のようであった。