其ノ廿玖
夕食後、華夜理は久し振りに風呂で洗髪した。頭皮にシャンプーを泡立てると、皮膚が快感に喜んでいるようだ。そして洗髪という行為が可能になったことは、彼女の体力が戻りつつあることを示していた。石造りの浴槽の縁に並ぶ貝を、栄子に捨てられなくて良かったと思う。栄子でもそこまでの無法はしないらしい。とりどりの貝の虹色めいた輝きや美麗な色は、華夜理の追い詰められた心を慰めた。
けれど。
(見合い、結婚)
その先に待つものが何であるのか、華夜理とて知っている。
石造りの浴槽の中、自分の裸身を眺める。
つまりは、そういうことなのだ。
見知らぬ男性に身を委ねる。それは怖気が立つ程の嫌悪感を華夜理に催させる。
鮑の貝殻をそっと手に取る。
おぞましい不安から解き放たれて、こんな輝きをいつまでも見ていたいと華夜理は思う。そう思うことが自分の弱さだとしても。
(糸魚川さんは嫌うでしょうね)
華夜理はくすりと笑う。
彼女は逃げや惰弱を許さない、苛烈な気性だ。けれどその中に、とても柔らかで繊細なものが隠れている気がする。
華夜理は鮑の貝殻の内側を舐めてみる。
硬質を舌に伝えるだけで、何の味もしない。潮の味を、感じたかったのに。
晶の味を、感じたかったのに。
その夜は浅葱も浅羽も揃って華夜理の部屋を訪ねてきた。
「明日にでもと言ったんだね?」
浅葱が穏やかな声で確認する。華夜理は頷いた。
「私、軽率だったかもしれない。熱が下がったからはしゃいで、その隙を叔母さんに突かれるだなんて」
「別に華夜理のせいじゃないだろ」
浅羽が文机に片肘を突いて胡坐を掻いた姿勢で言う。行儀が悪いが彼がやると何となく様になる。
「明日は僕らも学校がある。叔母さんが見合い相手を連れてくるとしたら安西先生も糸魚川さんもいない午後だろう。…晶が入院してから五日か。ぎりぎりだな」
「何の話?浅葱」
「うん」
浅葱は微笑を浮かべただけで答えない。
「出来るだけのことはするし、華夜理が不快な思いをしないで済むようにするから、華夜理はその積りでいて」
浅羽も瑞穂も浅葱を見る。同世代に、彼程に頼もしい存在はないと二人は思う。但し浅羽は、晶という例外も知っている。
晶と浅葱の如才なさは大人顔負けだ。
ふと、浅葱は華夜理に問う。
「今、応接間に誰かいる?」
「いないと思うわ。叔父さんも叔母さんも、もう寝てるみたい。待ってて、確かめてくる」
華夜理が一旦、部屋から出ると、三人の間に何とも言えない空気が漂った。
「今日はあの子、普通なのね」
「毎晩という訳じゃないよ」
何のことかすぐに察した浅葱が言う。
「狂ってるわよ、彼女」
浅葱が悲しげな顔をする。
「そんな言い方をしないでくれ。華夜理の受けた傷が深かった。ただそれだけなんだ。糸魚川さんは、それを華夜理のせいだと言うのかい?」
浅葱の顔と言い分に、瑞穂は言葉に詰まる。
丁度、華夜理が戻ってきた。
「叔父さんも叔母さんも離れで寝てるみたい」
「そう。――――じゃあ、糸魚川さん。ちょっと話したいことがあるから来てくれる?」
浅葱の言葉に、瑞穂が緊張の面持ちをする。華夜理も浅羽も瑞穂の反応に注目した。
「……解ったわ」
浅葱が先導して応接間の扉を開ける。
栄子たちを警戒して電気を点けないので、幽かな月光だけが部屋の光源となっている。
ジャガード織りのソファーも、アール・ヌーヴォー調のシャンデリアも、胡桃材のテーブルも、夜闇の中、昼間とは違う顔を見せるようだった。瑞穂と浅葱は一対のソファーのそれぞれの傍に立つ。まるでこれから芝居を演じるかのように。
「話って何?」
「決まっているだろう?僕は君に告白した」
「そうね。どうして私なの?」
浅葱がどこか冷たく微笑する。
「恋愛に理由なんてない。あえて言うなら、君の気高さに。綺麗な心に惹かれた」
歯の浮くような台詞を、とは瑞穂には言えなかった。それだけの真が浅葱の声には籠っていた。
「あたしの心が綺麗だなんて」
「僕が嫌い?」
「……嘘よ」
「嘘だと断じる、君の言葉こそが嘘だ」
浅葱は胡桃材のテーブルを回り込んで瑞穂に近づいた。瑞穂が身構える。
その足元に、浅葱が跪く。僅かな月光が浅葱の整った容姿を明所と暗所に区分していた。浅葱が自分の右手を取るのを、瑞穂は夢見心地で見ている。いつもなら火傷の跡が残る右腕を触られるだけで反発するのに。浅葱は瑞穂の右手の甲にそっと口づけした。暗い中、それでも確かに瑞穂の目をひたと見据えながら浅葱は言う。
「君の答えが聴けるまで、いつまでも待つよ」
そうして立ち上がった浅葱のセーターの袖を思わず瑞穂は握る。
「…………」
唇がわななくが言葉にならない。
ほろりほろりと宙に散じる形にならない言の葉たち。
浅葱は微笑して瑞穂の髪をさらりと掻い遣った。
いつもは二つ結びにしている髪が今は下ろされて、少女を大人びて見せる。
瑞穂が脱力したように浅葱のセーターから手を外す。
月の光は弱い。
二人の心こそが、暗所と明所の境目にあった。