其ノ廿捌
晶は病室で文庫本を開いていた。けれどその目は文字を追っていない。
当初、運び込まれた個室から今は四人部屋に代わり、同室の人間とは互いにそこそこ不干渉で円滑に時間を過ごせていると思う。真四角に刈り込まれたような病室、消毒や湿布の匂い、白いカーテン。雰囲気から材質から、全てが間宮小路家とは異なる病室にも慣れた。どちらも特殊な空間であることには変わりないが、晶にはやはり間宮小路家に流れる空気が心身共に馴染んでいた。
――――――華夜理が泣いていた。
誤魔化していたが、あれは明らかに泣いたあとの声だ。何があったのか。自分の与り知らないところで華夜理が泣いた。それは晶にとって看過し難いことだ。また父絡みだろうか。それとも糸魚川瑞穂と何かあったのか。晶は瑞穂の身上を浅葱から聴いていた。難しいところもあるが、根は優しい少女だと彼は言っていたが、人の気質というものは伝え聞いただけでは解らない。また病院内のコンビニでお金を崩し、小銭を作らなければならない。不便なことにこの病院にはテレホンカードが売っていないのだ。スマホが普及した今、テレホンカードの存在意義が無くなりつつあるのは頷けるのだが、こうした緊急時には不便だ。浅葱に電話して何があったか訊く必要がある。そう言えば華夜理も何かを言いかけていた。
小銭を大量生産する必要があるな、と晶は思った。松葉杖を突いて、身体を引き摺ってでも。今の自分には圧倒的に情報量が足りないと晶は歯噛みする思いだった。
その日の午後、華夜理はショールを羽織らず、久し振りに池の鯉に餌をやっていた。
透き通るような蒼穹に、目を細めてから餌を撒く。
無心に餌を貪る鯉たちの生命力のたくましさ。
微風が華夜理の髪を揺らすが、風そのものに鋭い冷たさはなく、温暖を含んでいる。春が近いのだ。華夜理は膨らみ始めた桜の蕾を見て思う。
ビー玉の入った臙脂色の袋を開ける。
中から紅玉のように赤いビー玉を取り出し、池に沈める。
赤いビー玉は柘榴の欠片のように水中へと落ちて行く。
きらきらした軌跡は、何度見ても見飽きない。
(私に柘榴を食べさせたいと言った晶。私が自由を奪っている人。もし私がお見合いをすれば、晶は自由になるのかしら)
けれど見合いの先には結婚がある。
華夜理には見ず知らずの他人と結婚するなど、考えもつかない。いっそのこと晶の見舞いに行って不安の何もかもを打ち明けたいくらいだが、他ならぬ晶から一人での外出を禁じられている。瑞穂に同行を頼むという手段もあるが、瑞穂が下校したあとに病院に向かっていては、面会時間に間に合うか怪しい。それ以前に、瑞穂が願いを聴いてくれるかどうかも解らない。
八方塞だ。
黄色い渦巻が描かれたビー玉を投げる。
ビー玉を沈め、或いは投げる度に立つ水飛沫と波紋は華夜理の胸中をも表すようで、水の演舞は美しい。
(私は誰とも結婚したくない。ううん。結婚するのなら。結婚するのなら――――)
しかしそれを望んではいけない気がする。
「何をしてるの?」
風よりも余程、冷たい声が華夜理に投げ掛けられる。
制服姿の瑞穂が、渡り廊下に立っていた。顔は厳しく、華夜理を睨んでいる。
「糸魚川さん。お帰りなさい」
「私の問いに答えて。風邪をひいた人間が、この寒い中、外で何をしてるのと訊いているのよ」
華夜理は肩を竦める。
「……鯉に餌を」
「最近の鯉はビー玉も食べるの?知らなかったわ」
瑞穂の皮肉に華夜理は罰が悪い思いで、ますます縮こまる。
華夜理は下駄を鳴らしながら渡り廊下まで戻った。
瑞穂が華夜理の手を取り、どんどん歩いてゆく。
「……この莫迦姫が」
小さく吐かれた悪態に、華夜理は返す言葉もない。
華夜理の部屋に着き、瑞穂が着替えもせずに華夜理に尋ねた。
「このうち、葛粉はある?」
「わ、解らない……。片栗粉ならあると思うけど」
「どこまで役に立たないの。良いわ、適当に探すから。貴方はここで大人しくしてなさいよ」
指差して華夜理にびしりと告げると、瑞穂は部屋を出て行った。
やがて彼女は、乳白色の湯呑を盆に載せて運んできた。
「これは?」
「葛湯よ。温まるわ。飲みなさい」
一口飲むと、生姜の風味がして、舌にとろりとした触感を覚える。
「摩り下ろした生姜が入ってるわ」
華夜理の心を読んだように瑞穂が教える。
確かに体内から温まりそうだと思い、華夜理は瑞穂の気遣いを嬉しく感じた。
「ありがとう」
瑞穂は華夜理の謝辞を無視した。
「で?あんなとこに何も羽織らずにいた訳は?」
「怒らないでね?」
「それは理由と事情によるわ」
「……叔母さんがうちで見合いを強行する積りらしいの。私が、元気になってきたのを見て」
「――――それで?」
「もう一度、風邪が悪化するなら見合いも延期になるかと思って。少なくとも、晶が退院してくるまでは」
瑞穂は腕組みしてしばらく華夜理の言葉を咀嚼しているようだった。
「……月島君に連絡を取るわ」
「浅葱?」
「そう。でも、憶えておいてね」
瑞穂が華夜理を射るように見た。
「私たちは所詮、まだ子供よ。出来ることなんて限られてる。あの、品のない大人たちに対抗し得る手段なんて、簡単には見つからないってことを」
「…………」
華夜理は残りの葛湯を飲み切った。
今度は生姜のひりりとした辛味を強く感じた。