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其ノ廿漆

 その大樹の、朽ちた屍をずっと見ていた。

 幹には大きな洞があり、根本から腐ったのだと解る。

 弔わなくては、と華夜理は思う。

 弔いには炎を、或いは水を?

 華夜理は宙に立っている。足下には水。

 遠いところに、瑞穂が同様に立っていた。

 彼女は穏やかな表情で水面を見ている。

 不意に瑞穂がこちらを向く。

 触らないでと静かに言う。

 華夜理は理解する。瑞穂は全てを拒絶しているのだ。だから独りなのだ。どこまでもそう在り続けようとする姿は野生動物にも似て美しいが、華夜理は胸が締めつけられひりひりとした。


 朝、起きると、瑞穂はもう制服に着替えていた。

 華夜理が起きたのに気付くと、得体の知れない者を見る目をする。

 その理由が解らない華夜理は、ひとまず朝の挨拶をした。


「おはよう、糸魚川さん」

「……おはよう。華夜理さん」

 冷たい声に、華夜理は怯みそうになる。

「今日も午前中は家庭教師の先生が来てくれるんでしょう?午後はあたしが戻るまで守りなさいね、貞操を」

 恬淡とした口調で冗談ともつかないことを言われて戸惑う。

 華夜理の熱は今ではもうだいぶ下がっていて、例え慎一郎が来ても追い返すくらいの気力は養われていた。

 二人で朝食を食べると、瑞穂は学校に向かう。この家から瑞穂や浅葱たちの通う学校に行くには時間も距離も掛かる。その労を思い、華夜理は瑞穂に申し訳ない気持ちになった。


 熱が下がってきたとは言え、まだ油断は出来ない。しかし華夜理は気合を入れる為、夜着である浴衣から着物に着替えた。藤色の結城紬に、インドサリーに使われる生地で出来た帯を合わせる。帯揚げは(とき)色に、帯締めは淡いピンク。

 自分の額に手を当てると、少し温いくらいだったので、自信を持つ。いつまでも栄子や慎一郎をのさばらせておく訳には行かないのだ。自分がしっかりしていれば、浅葱たちにも瑞穂にも火の粉は飛ばない。

 火の粉……と考えたあたりで、華夜理は昨晩の瑞穂の話を思い出した。

 

〝あたしの親は借金で首が回らなくなって、火事を起こして一家心中しようとした。今でもその時の火傷の跡が残ってるの〟

 

〝捨てられたも同然でしょう?あたしの命を〟


 瑞穂の気持ちを思うと胸が痛む。その嘆きの深さは如何ばかりか。けれど彼女は同情など受けつけまい。だから華夜理は瑞穂のいないところで泣くのだ。

「…………」

 華夜理は声を上げず、静かに、静かに涙を流した。ほとりほとりと落ちる雫。畳がぱたた、と音を立てた。

 スマホが鳴る。涙を拭い、華夜理は着信を確認した。公衆電話から。晶だ。


「もしもし、晶?」

『おはよう、華夜理。……声がちょっと変だね。泣いてた?』

 華夜理は慌てる。昔から晶は、華夜理のちょっとした言動で、その感情を見抜いてしまうのだ。

「おはよう。大丈夫、何でもないから」

 ここで一拍の間が空いた。


『色々と、話は聴いてる』


 晶の声からは抑制された怒りが感じられた。

 慎一郎の件だ。怒りだけではないだろう。失望、悲しみ。晶の感じた様々な思いを想像して、華夜理の胸は痛んだ。


「うん……」

『華夜理がそんな状況にいる時に、僕は無力だ。歯痒くて、自分が情けなくなるよ』

「そんなこと言わないで。晶が誰より私を思い遣ってくれてること、ちゃんと解ってるから」

『糸魚川瑞穂さんと過ごしてるって?』

「うん。昨日から来てくれてる」

『そう……』

 晶は何か思案するような声で相槌を打った。

「晶。それでね、私」

『うん?ああ、待って。小銭が切れる。また電話するよ』

「うん…………」


 晶を解放する。


 その言葉を言わずに済んでほっとした思いと、後ろめたさが華夜理の胸をよぎる。


(しっかりしなさい、華夜理。晶の為に決めたことでしょう)


 華夜理は玄関の花を手入れしようと廊下に出た。数歩行ったところで、後ろから声を掛けられる。


「華夜理ちゃん?」


 丁度、栄子が離れから渡り廊下を伝って母屋に来たところだった。本日の栄子の服装は真っ黒い総レースのツーピースだ。レースの下には肌が見えないよう、ちゃんと下地がついている。上品と下品のぎりぎりの境界線上にある装いだ。これが計算されたものであるのなら見事だ。魔女みたいと華夜理は思った。一体何着の洋服を持って来たのだろうと呆れもする。

 

「どうしたの、貴方。着替えたりなんかして。熱は?」

「もうだいぶ下がりました」

「あら、そう……」

 つまらなさそうに言った栄子の目に嫉妬が浮かぶ。どんなに飾り立てても、若い華夜理には叶わないという嫉妬だ。だが何に思い至ったのか、突然、うきうきとした口調で言った。

「華夜理ちゃんが元気になったのなら一安心ね。その着物、とっても似合ってるわよ。明日も着物を着るの?」

 とってつけたようなお世辞に華夜理は身構える。

「解りませんが、体調が良ければ」

「そう、良いことだわ」

 鼻歌でも口ずさみそうな栄子の喜色が、華夜理には気味が悪かった。このまま、魔女のような女性に丸呑みにされそうに思えて。


 暁子は華夜理が健康に戻りつつあることを喜び、その日の午前中は久し振りに勉強の時間となった。

「華夜理ちゃんと同じ女性として、華夜理ちゃんの叔父さんのしたことは許せないわ。私に出来ることなら何でもするから」

 暁子はそう息巻いていた。

 完全に暁子は華夜理を庇護すべき対象と見なしたようだ。それは晶が望んだことで、皮肉にも慎一郎の暴挙によって確固となった感情だった。


 暁子が帰った後、華夜理は用意されていた昼食を食べ、朝の間、花を始末したあと玄関に置いたままだった花器を蔵に戻そうと、廊下を歩いていた。古くからある漆喰の蔵は母屋と離れを繋ぐ渡り廊下を中心線として、池の丁度真向いに立っている。蔵に行くには渡り廊下の前に置いてある下駄を履かなければならない。華夜理はまた風邪を悪化させないよう、空色のショールを羽織っている。

その声は、応接間の横を通り過ぎる時に聴こえてきた。


「――――ええ、あの子もやっと健康になったようで。早く見合いをしたいと言っておりますの。ですからそちらの都合さえよろしければ明日にでも」


 余程、浮かれているのだろう。栄子の甲高い声は、厚いマホガニーの扉を通してもよく聴こえてきた。栄子は晶のいない間に、独断で見合いを強行する積りなのだ。

 華夜理は持っていた花器の重さと冷たさが急に増した気がした。





挿絵(By みてみん)





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