其ノ廿陸
涙雨かと思うような雨だった。瑞穂は家があった場所を虚ろな目で見つめた。病院を黙って抜け出してきたので、病衣に、傘もなく。誰かに踏みつけられたのだろう蒲公英がひしゃげて雨にそぼ濡れていた。家は真っ黒な残骸と化していた。
瑞穂は思わずえずいて、そこに吐瀉物を撒いた。と言っても、出てくるのはほとんどが胃液で、彼女がここ数日、碌に物を食べていなかったことが解る。借金に追い詰められて両親は家に火をつけた。火災保険に入る余裕もなかっただろうから、単純に死んで逃げたかったのだろう――――我が子を道連れにして。両親の死因は一酸化炭素中毒だった。
瑞穂は膝をつき、獣のように慟哭した。それは激しい雨の日だった。
瑞穂には華夜理が冗談を言っているようには見えなかった。
微笑む桜貝の唇、白い頬、漆黒の髪。
初めて逢った時、何て綺麗な女の子なんだろうと思った。
そうして、こんな子であれば浅葱が大切に守ろうとするのも無理はないと。
夜、華夜理が奇妙な振る舞いをするかもしれないとは聴いていた。それが両親の交通事故に端を発してのものだということも。
けれどこれは。
瑞穂は純粋無垢の塊もまた、毒足り得ると知る。
この聖性は罪だ。
見る者をも陥穽に招く。
その陥穽は黒ではなく真っ白い闇なのだ。
甘えるように華夜理が瑞穂に抱きついてくる。いつもであれば容赦なく突き飛ばしているであろう場面で、今の瑞穂にはそれが出来ない。
微かに薫る、これは何の香りだろうか。華夜理の髪が瑞穂の首筋に当たりくすぐったい。
「お土産の、レースのハンカチは?」
「そんな物ないわ」
「嫌よ、嫌。嘘言わないで。お母さんは、約束をいつも守ってくれるもの」
声が段々と虚ろに、低く、不穏を招くようになっていくのを、瑞穂は固唾を呑んで聴いていた。
この自分が。
世間知らずのこんな少女に振り回されるなんて。
「お母さん……」
もたれかかる華夜理の重みは、一種甘美でさえあり、そしてそう感じる自分を瑞穂は忌々しく思う。母性などとは最も遠い場所にいるのが自分だ。ただ独り屹立として在る。それが自分の筈だ。それなのに。屈辱だ。この少女は自分に屈辱を与えている。それでもじっとして動かない瑞穂の耳に、明かり障子を叩く音が聴こえた。
浅葱か浅羽だろう。来るという話は聴いていた。
途端、呪縛が解けたように瑞穂は華夜理の身体を乱暴に押し退け、つかつかと歩くと明かり障子を開けた。
外気は少し温んでいたが、やはり肌寒いと感じる。
「月島君」
「あいつ、元気?」
立っていたのは浅羽だった。瑞穂の通う学校では月島家の双子たちをピアスのあるなしで判断したが、瑞穂にはそんな目印がなくても二人を区別出来た。所作が違う。口調が違う。――――――心が違う。
「入って。あの子、変よ」
「ああ、変なんだ」
さらりと浅羽は軽い口調で返し、明かり障子から室内に入った。
華夜理は今ではぼんやりとして、親を待つ子の風情で佇んでいる。
「あたしのこと、お母さんだなんて」
「そんなこと言ったのか」
浅羽が目の前に立つと、華夜理がきょとりと小首を傾げた。
「浅羽?」
「ああ。俺だ」
するとすぐに華夜理はむずがるような表情になる。
「お母さんがレースのハンカチをくれないの。どうして?約束したのに」
〝どうして?約束したのに〟
もう守られることのない約束。永遠に叶えられない約束―――――。
「レースのハンカチなら」
そう言って浅羽は桐箪笥の下から二段目を開けた。そこから数枚の白いレースのハンカチを取り出して華夜理に見せる。
「な?あるだろ?」
「……そうね。そうね。でも変ね。私、お母さんから貰った憶えがないのよ」
瑞穂は二人の遣り取りをじっと横から見ていた。観察するように。
「良いからもう寝ろ。グスコーブドリの続き、読むか?」
「うん」
こくりと頷いて、華夜理は寝床に入った。
瑞穂が軽く目を見張る。
浅羽は、付書院から『銀河鉄道の夜』を持って華夜理の枕元に胡坐を掻く。
瑞穂の知る浅羽はどちらかと言えば兄である浅葱と比べると粗野で、腕白な少年の部類だ。それが少女に本の読み聞かせをしている。それはちょっとした驚きだった。
しばらくして、寝付いた華夜理を見守る浅羽の顔は優しい。浅葱もこんな顔で華夜理の寝顔を見るのだろうか。
「その子、何なの?」
瑞穂は、自分で思ったより尖った声を出した。
浅羽がしい、と人差し指を唇に当てる。
「話したろ?……華夜理の両親は、六年前に交通事故で死んだ。以来、夜はこんな風に記憶の混乱が時々起きる。まさか糸魚川を母親と呼ぶとまでは思わなかったけど」
悪かったな、と浅羽が言う、その謝罪が瑞穂の癪に障った。なぜ華夜理のことで浅羽が謝らねばならないのか。今からでも華夜理を揺り起こし、甘えるなと一喝したい気分だった。
浅羽が続ける。
「晶は……こいつの父方の従兄弟はさ、同じ家に住んでずっと華夜理を守ってきたんだ。けど華夜理はそのことに自責の念を抱いてる。自分が晶を束縛していると思ってるんだ」
「違うの?」
浅羽が瑞穂をちらりと見て笑う。
「晶は自分から喜んで華夜理の面倒を見てんのさ。それが恋愛感情からかどうかは俺にもまだ解んねえ。でもな」
そこで浅羽は考え深い表情をする。
そんな顔も出来るのかと瑞穂はまたも驚いていた。浅羽は、瑞穂が考えていたよりずっと大人な側面を持ち合わせているのかもしれない。浅葱のようにそれが表面化する機会が少ないだけで。
「自分から晶を解放するって華夜理は言った。そんなところに誰の幸福もないのに。……こいつ、泣くに決まってんのに。莫迦だよな」
瑞穂は思い至った。浅羽が大人の顔をここで見せる理由。華夜理に過剰な程、思い入れる理由。
「月島君。華夜理さんが好きなの?」
浅羽が瑞穂を見る。静かな湖面のような目だった。
「多分な」
浅羽は気負いなく答えた。乾いた風のようだった。