其ノ廿伍
瑞穂は食事も華夜理の部屋で摂った。
そのことでも栄子とまた一悶着あったらしいが、瑞穂は詳細を語らない。
膳に並べられた料理を食べる瑞穂は、背筋が伸びて箸使いなどの所作が美しい。
「この家、贅沢な物食べてるのね。アボカドと鮪のサラダなんて。いつもこうなの?」
「アボカドは、叔母さんが好きだから……」
「如何にもね」
自身は粥を食べながら、華夜理は受け答えする。嫌いだとは言われたが、瑞穂は華夜理を無視する気はないらしい。
氷の花のようだ、と華夜理は瑞穂を見て思う。
自らを冷たい凍てつきに閉じ込めた綺麗な花。
人が触れようと手を伸ばしても、その冷たさで他を拒絶する。
浅葱は彼女のどこに惹かれたのだろう。
「――――じろじろ見ないでくれる?失礼よ」
「あ、ごめんなさい」
瑞穂にまさに氷のような視線で睨まれ、華夜理は目を粥に向ける。
だが瑞穂は、華夜理に早く食べ終われと急かすようなことはしなかった。自分はとうに食べ終えていても、華夜理が粥を食べ終わるのを待った。瑞穂がそれを当然のように考えているらしいことが、華夜理は嬉しかった。
「この部屋、別世界みたいね」
瑞穂がぐるりを見渡しながら言う。華夜理がそれに答えるには、また食事を中断しなければならないが、瑞穂は待つ積りらしい。
瑞穂に言われて華夜理も改めて自分の部屋を見渡す。付書院、違い棚、文机、桐箪笥、本棚、鏡台、衣桁。
「別世界?そうでしょうか。ずっとこの部屋を使っているので」
「月島君から書院造風だとは聴いてたけど。まさか本当にこんな、お姫様のお部屋みたいだとは思わなかった。それから、敬語やめて」
「は、う、うん」
「勘違いしないでね。敬語を使われるのが鬱陶しいだけで、貴方と仲良くなりたい訳じゃないから」
「……うん」
瑞穂の言葉は一つ一つが鋭かった。
華夜理には同性の友人がいない。もしも瑞穂がそうなってくれたらという期待は、淡く儚いもののようだ。陰鬱な少女の横顔を見ながら思う。
――――この氷の花は、人の干渉を寄せつけない。
熱が少し下がったので、華夜理は入浴することにした。
髪も洗いたいがまだ我慢する。洗髪は体力を消耗するのだ。
「じゃあ、私、お先にお風呂頂くから」
華夜理の文机に今日出された課題の教材を広げ、そこから顔も上げず、瑞穂がシャーペンを持ってない左手をひらひらと振った。
ここしばらく熱が続いていたせいか、以前より一回り痩せた身体を、華夜理は入念に洗った。風呂で人心地ついた華夜理は、浴衣を鉄線の濃紺の物に変え、部屋までの廊下を歩いていた。十二面体の電灯の下を通る。築何十年というこの家は、文化財並みの貴重さで、長い飴色の廊下の艶も磨き上げられてきた年月を感じさせる。当然、手入れの必要もあるのだが、華夜理はその方面に関してはさっぱりで、晶と、浅葱たちの両親がその差配をしていた。
「やあ、華夜理ちゃん」
部屋の少し前で、慎一郎と遭遇した。昨日の今日だ。華夜理は丹前の両袖を握り締め、臨戦態勢を取った。決して後れを取るまいと思う。
「昨夜はすまなかったね。ちょっと悪酔いしてたみたいだ」
「……そのようですね」
今は慎一郎から酒の匂いを感じないものの、華夜理に絡みつくような視線は変わらない。
「風呂に入ったんだね。具合が良くなった?」
「はい」
「ねえ、華夜理ちゃん――――」
慎一郎が華夜理との距離を詰めようとした時、華夜理の部屋の襖が開いた。
瑞穂が出てくる。
「退いてください」
冷淡な声に思わず慎一郎が一歩、退く。
瑞穂は慎一郎と華夜理の間に割り込むようにして歩いて行く。着替えを持っているところを見ると風呂だろう。
「華夜理さん。金魚に餌、やらなくて良いの?」
「あ、そうだった。じゃあ叔父さん、これで」
瑞穂が出した助け舟に、華夜理は飛びついた。名前を呼んでもらえたことも、嬉しいと感じた。
華夜理は慎一郎の返事を待たず、急いで部屋に逃げ込んだ。
風呂から戻ってきた瑞穂は、上下、グレーのスウェットに着替えていた。洗い立ての髪から香るシャンプーの匂いが、華夜理に羨望の念を抱かせた。今まで二つ結びにしていた髪を下ろした瑞穂は、少し大人びた雰囲気が漂っていた。
「……貴方、いつも着物なの?」
先程の礼を言おうとした華夜理の機先を制して瑞穂が浴衣姿の華夜理に尋ねた。
「ええ。大抵は」
「本当にお嬢様なのね」
棘のある言い様に華夜理は鼻白んだが、瑞穂スウェットの袖から覗いたものに反応し、寝床から素早く立った。
瑞穂の右腕を掴む。
「糸魚川さん、この怪我――――」
「触らないでっ」
ぱん、と瑞穂が華夜理の頬を打った。
華夜理に見せまいとするかのように、スウェットの袖を伸びるくらいに引っ張っている。
「言った筈よ。引っぱたくかもしれないって」
「…………」
凍りついた声音で、瑞穂は続ける。
「あたしの親は借金で首が回らなくなって、火事を起こして一家心中しようとした。今でもその時の火傷の跡が残ってるの」
「――――捨てられたって」
「ええ、捨てられたも同然でしょう?あたしの命を」
「ごめんなさい」
瑞穂はしばらく黙っていたが、やがてくるりと踵を返した。
「布団を借りてくるわ」
氷の花の所以は、赤い焔だった。
遣る瀬無い瑞穂の傷の一端に触れてしまった、と華夜理は後悔した。
金魚に餌をやると所在なさげに布団に座る。
戻った瑞穂は、もう平静に戻っており、華夜理の布団の隣に自分の布団を敷いた。
「戻ってきてくれて、ありがとう」
「――――何言ってるの、貴方」
「だって、もう戻ってきてくれないかと思ったの」
「大袈裟ね」
布団を取りに行っただけでしょう?と言おうとした瑞穂より先に華夜理が言った。
「お母さん」
華夜理は童女そのものの表情だった。
瑞穂は愕然として華夜理を見返した。