其ノ廿肆
翌日。
華夜理が思ったより事態は早く動いた。
まず暁子が、栄子を言い負かして強引に華夜理の部屋を訪ねた。彼女は昨晩、浅葱から連絡を受けていたのだ。暁子の連絡先を、華夜理は浅葱に教えていた。浅葱は慎一郎の所業を晶にも伝えた。浅葱、浅羽、晶、そして暁子と、華夜理を援護する為のネットワークが張り巡らされた。一刻の猶予もないと考えた浅葱が中心となってのことだった。
暁子は自分がいる間は、栄子も慎一郎も決して華夜理の部屋に近づかせようとはしなかった。
家庭教師風情が、と目くじらを立てる栄子と違い、後ろめたいところのある慎一郎は、暁子への表立った批判を控えた。
そして暁子が帰り、やっと自分たちの天下が戻ったと息を吐いた栄子たちだったが、夕方にはまたも望まぬ来客を迎えることとなる。
「……なあに、貴方たち」
浅葱の隣にいる少女は栄子の知らない顔で、栄子は露骨に眉をひそめた。夕景を背にして立つ少年と少女は逆光となり、栄子の目に不吉な使者のように映った。
青いブレザーに赤いネクタイ、グレーのスカート。浅葱と同じ学校の制服だ。
「糸魚川瑞穂と言います。家の都合でこれから数日間、お世話になります」
痩せて華夜理よりも小柄で、髪を二つ結びにした、一見小動物のように大人しげにも地味にも見える少女は、しかし栄子の圧力に臆さず、そう言ってのけた。深々とお辞儀をする。
栄子はぽかんとした。状況についていけてないのだ。
浅葱が笑みを湛えて説明する。
「彼女のご両親が、仕事の都合でしばらく留守にしなければならないんです。華夜理も一人で心細いでしょうから、どうせなら一緒に過ごしてはどうかと僕が糸魚川さんに提案したんです」
「一人って……」
私たちがいるでしょう、と栄子が反論する前に瑞穂が口を開いた。
「これ、心ばかりの物ですが。寝起きは華夜理さんと一緒にしますので、どうぞよろしくお願いします。彼女の看病もする積りです」
周到なことに瑞穂は、近隣でも有名な和菓子処の菓子折りを持参していた。
栄子は目の前がくらくらする思いで何とかその場に踏み留まっていた。
何だ、この展開は。
何を勝手な。
何を勝手な。
「ちょっと待ちなさいよ、貴方ねえ。そんな非常識な」
瑞穂がちらりと栄子に目を向ける。
「叔父が姪に手を出す程、非常識じゃないと思いますけど」
「……何を言ってるの?」
「糸魚川さん。華夜理の部屋はこっちだよ」
浅葱が先に立って瑞穂を手招きする。
あとに残された栄子は唖然として玄関に突っ立っていた。玄関の床の間めいた空間に飾られた花々は、手入れする華夜理が寝込んでいる為、枯れて腐乱を始めていた。その中で菊と松だけが辛うじて命脈を保ち、栄子にはそれが妙に憎らしく思えた。
華夜理が浅葱に紹介された瑞穂は鉄面皮で、ともすれば陰鬱な空気を華夜理に感じさせた。
顔立ちは綺麗だが、年頃の娘には稀有なことに、本人が容貌をまるで気にしていないように見える。容貌だけでなく、世間にも背を向けて生きている印象を見る者に与えるのだ。浅葱が彼女を信頼していることは、接し方でも解った。そして浅葱の想う相手が彼女であろうことも。
浅葱が瑞穂を置いて帰ってから、瑞穂は持ってきたボストンバッグを開けた。
華夜理に一言、言う。
「着替えるからあっち、向いて」
華夜理は慌てて掛布団を頭の上まで引き上げた。
「もう良いわよ」
瑞穂はトレーナーとジーンズという飾り気のない恰好になっていた。制服のほうがまだ華やかに見えるその私服は、瑞穂が着る物にさえ無頓着であることを示している。
「あの。ご両親がお留守の間、お世話になります」
華夜理は起き上がって瑞穂に頭を下げた。長い黒髪が掛布団に流れる。
「両親なんていないわよ。あたし、施設育ちなの。普段は一人暮らし」
「え、でも浅葱が」
浅葱の名を華夜理が出したところで瑞穂の鉄面皮が動く。不快そうに眉が寄せられた。
「月島君はあたしの事情を考慮して気遣ってくれただけ。貴方のご両親は事故で亡くなられたんでしょうけど。あたしは捨てられたの。良いとこのお嬢様の貴方とは違うのよ」
自分の世間知らずを詰られたようで、華夜理は小さくなる。
「今回は月島君の話を聴いて協力する気になったけど。あたしは最低限のことしかしないし、」
そこで瑞穂は言葉を切った。くすりと笑いを洩らす。
「気に入らないことがあったら、貴方を引っぱたいちゃうかも」
「ど……して」
「あたし、貴方が嫌いだから」