其ノ廿参
それからどのくらい時間が経ったのか解らない。
皺が寄った竜胆の柄が咲き乱れている。
仰臥した華夜理の浴衣は着崩れ、標本の青い蝶のようだった。呼吸は乱れ、頭は依然として火のように熱い。
慎一郎の姿は既にない。
華夜理は茫然としていた為、ほとほとと鳴る明かり障子の音に、随分長いこと気付かなかった。
「華夜理?」
潜めるように呼ばれた声で、ようやく我に帰る。
「華夜理?どうしたの。何かあった?ここを開けてくれないかい?」
浅葱の声だ。
双子の浅葱と浅羽の声はよく似ているが、華夜理には聴き分けが出来る。
何より口調が違う。
「……入るよ」
明かり障子が開き、浅葱が付書院に足を置く。浅羽が来ることを考慮して、金魚鉢や本は予め端に寄せていた。
「浅葱……」
華夜理は急いではだけた浴衣を直すと、布団を被った。
それとは逆にコートを脱ぎ、只事ではないと感じた浅葱が口早に問う。
「華夜理。一体、何があったんだい」
「叔父さんが……」
明晰な浅葱の頭脳は目で見た状況からすぐに答えを導き出した。
「――――何かされたんだね?」
「……ち、がう。されそうに、なったけど」
華夜理の息がひゅーひゅーと鳴る。過呼吸を起こしかけているのだ。
浅葱は極力、温厚な声を心掛けて華夜理に言った。
「焦らなくて良いから。落ち着いて。息を、ゆっくり、吸って」
「嫌なこと、されそうになったけど、必死で抵抗したら、諦めた……」
華夜理がゆっくり、喘ぎながら告げた事実に、浅葱は心底安堵した。
闇の中に生まれた光だった。
彼は最悪の可能性を考えていたのだ。だがまさか、晶の父であり華夜理にとっては叔父である慎一郎が華夜理を襲うとは予想だにしなかった。今回は何もなかったものの、最悪の事態だ、と浅葱は唇を噛み締める。血の繋がりの禁忌以前の道徳的問題だ。慎一郎は熱で弱っている姪に、乱暴を働こうとしたのだ。ある意味、栄子より始末が悪い事柄であり、人物だと思った。
「華夜理…」
「嫌っ」
思わず額に触れそうになった浅葱の手を、華夜理が力一杯、振り払った。
渾身の力が籠められたその抵抗に、浅葱は驚愕し、それから華夜理の受けた打撃を思う。
華夜理自身には振り払う積りはなかったようだ。自分の行為に驚いて目を見張っていることからもそれが解る。
「落ち着いて。僕は君に、何もしない」
「解ってる、ごめんなさい。それより、今日は浅羽じゃないのね」
自身の行為を誤魔化すように、華夜理が口早に言う。
浅葱がくすりと笑った。
「あいつのほうが良かったかい?」
「ううん。私、浅葱も浅羽も好きよ」
「ありがとう」
異性、同性を問わず、好意を隠さず口にするのは、華夜理の無邪気さと純粋さ、そして僅かな罪深さだ。
布団から目の上だけを覗かせた状態で、華夜理がふと思い出したように言う。
「そう言えば浅羽が、浅葱には好きな人がいるって言ってた……」
あいつめ、と思いながら浅葱はにこやかに答える。
羞恥や苛立ちを、今の華夜理にぶつけることはご法度だ。
気持ちの切り替えを彼女が望むのなら、それに合わせなければならない。
「うん。いるよ」
「そのガーネットの、願掛けの相手ね。どんな人?」
「そうだな。……心の綺麗な子だよ。華夜理みたいに」
浅葱が宝物の在り処を明かすように、そっと呟く。少し憂いがちな顔で。
「私の心は綺麗じゃないわ」
「そんな風に言うもんじゃない。少なくとも晶も僕も、そして浅羽も、華夜理くらい、心の純粋な存在を知らないよ」
「綺麗じゃないわ……」
華夜理が涙ぐんだ。叔父から受けそうになった仕打ちが、再び思い起こされたのだ。
慎一郎の存在の弊害は大きいと浅葱も思わざるを得なかった。
今日は諦めたから良いものの、次はどうなるか解らない。そして夫の行為を知った栄子は、恐らく慎一郎より先に華夜理を責めるだろう。聞き苦しい言葉を華夜理に浴びせかけ、華夜理はますます病身に鞭打たれることになる。
「浅葱。どうしよう。眠れそうにないわ」
華夜理の訴えは尤もだった。本来であれば安息の場所である自宅に、自分を襲おうとした男と、華夜理の心情を歯牙にもかけないその妻がいるのだ。
「叔父さんも今日はもう来ないだろう。眠るまで僕がいるから、……」
安心しろとは言えなかった。
「華夜理。僕の頼みと思って眠ってくれ」
「浅葱。浅葱。私、汚れちゃった?」
華夜理のこの問い掛けに浅葱は珍しくかっとした。無論、華夜理に対してではない。華夜理をここまで追い詰めた、慎一郎に対して激しい憤りを感じたのだ。自分を鎮める為に深く息を吸う。心を平らかに保つ必要があった。
「金魚鉢。金魚。ビー玉。おはじき。天の川。アートアクアリウム。……柘榴石」
「浅葱?」
「そのどれよりも、華夜理は綺麗だよ。晶だってそう言うに決まってる」
華夜理の目に宿る怯えが、僅かに和らいだ。
「浅葱は気障なことを言ってもちっとも嫌らしく聴こえない。私、浅葱みたいなお兄さんが欲しかったわ」
「うん。僕も華夜理みたいな妹が欲しかったな。今からでも、浅羽と交換して欲しいくらいだよ」
くすくすと、やっと華夜理の笑う声を聴くことが出来て、浅葱はほっとする。
それから顔つきを改めた。
「今晩のことは、流石に見過ごせない。僕なりに打てる手を打つから。万一の事態なんて、絶対に許さない」
浅葱の表情はさながら子を守る獣のような凛々しさと厳めしさだった。
華夜理は小さく顎を引いて、了承の意を表した。
晶と浅葱は小さな頃から、華夜理にとって兄のような存在だった。浅羽は時々意地悪をするやんちゃな子。贔屓目でも、晶や浅葱をそれ程身近に感じられる位置にいる自分は、女の子として恵まれているのだろうと思う。
浅葱の真紅のガーネットを見る。
思えばこのガーネット、柘榴石から晶との関係性の謎かけが始まった気がする。
けれど今はひどく眠い。極度の緊張状態が解けて、急激な眠気が華夜理を襲う。
「浅葱は――――」
浅葱は好きな子に柘榴を食べさせたい?
その問い掛けは途中までしか言葉にならず、華夜理は深い眠りに落ちていった。
夢の中で華夜理は子供に戻っていた。
白いワンピースが翻る。
晶と浅葱、少し離れたところに浅羽もいる。
黄色いボールで遊んでいた。
木漏れ日と優しい風。苦しいことは何もなかった。
華夜理は笑っていた。
何一つ、憂いなどなかった。
真ん丸の幸せの中に華夜理はいた。