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其ノ廿弐

 浅羽は耳にしたことが信じられなかった。

「何言ってんだ、お前……」

「晶の為なのよ」

「何を――――――」

 不意に浅羽は胸がつかえて苦しくなった。

「浅羽?」

「……畜生、何だよこれ」

「泣かないで、浅羽」


 浅羽の双眸から涙が流れていた。

 しかし彼自身、なぜ自分が泣いているのか解らない。

 華夜理の悲壮な決意の痛ましさに、胸が苦しくてそれが涙となったのだとは。


「泣かないで、浅羽。私は大丈夫だから」

「どこがだよ……。あいつが、晶がいなきゃ何にも出来ない親指姫の癖に」


 数分、涙を流したあと、浅羽はきっ、と華夜理をまだ潤んだ目で睨みつけた。


「晶は解放なんざ望んでねえよ。進んでお前の傍にいるんだ。それがあいつの、幸せなんだよ」

 言いながら浅羽の胸は再び痛んだ。今度は別の痛みだったが、今の彼にそれらの識別は出来ない。

 少しの間、華夜理は沈黙した。

「それなら私は。晶に傍にいてもらう為に、やっぱり柘榴を食べなくてはならないのかしら?」 

「何だよそれ」

「…………」

 返る返事はなかった。華夜理は眠りの国へと旅立っていた。


 夢も見ない眠りだった。ただ寝る前に見た、浅羽の涙だけが華夜理の深層意識に深く刻みつけられた。陰影を持つ美しい雫の一粒一粒が。


 ぼうとして目覚めるといつもより遅い時間だった。華夜理の常の起床時間は早い。高い熱がその習慣さえ凌駕したのだ。身を起こすだけで息が切れる。身体を引き摺るようにして付書院まで行くと、金魚に餌をやった。

 他愛なく餌に喰いつく金魚たち。

(……こんな風に私も晶から守られている)

 昨日、浅羽に告げたことははっきりと憶えている。それが本心だということも。


(けれど、浅羽は泣いたわ。……私が泣かせてしまったの)


 あの奔放な少年は、根が優しい。

 華夜理は金魚の朱色を睨む。相も変わらず無心に泳ぐ、愛でられる為に生まれたものたち。


(段階を進めなくてはならない時期に来ている。私も、晶も、今までのようにはいられないのだわ。きっと。そうしてその事象に、浅羽たちを巻き込んでいる)


 『源氏物語』五十一帖浮舟の表紙を撫でる。

 

 その時、部屋の襖が前触れなく開いた。


「何よ、起きてるじゃない。早くお布団に入りなさい?体温計とお粥を持ってきたから、ほら」


 栄子が昨日とは違う服でお盆を抱えて入ってくる。彼女が部屋に入るとぷんと香水が匂った。体調不良の時に強い匂いを嗅ぐのは辛い。だが栄子なりの気遣いである粥を食さない訳にも行かず、華夜理は(ちり)蓮華(れんげ)を手に取った。

 ふう、ふう、と息を吹きかけ、粥の熱を冷ましながら食べる華夜理を、栄子が観察するような視線でずっと見ている。食べ終わると、風邪薬と体温計がすかさず出される。

 体温計の示した数字を見て栄子が、なぜか嬉しそうに言う。

「高いわね。可哀そうに。当分、私たちが面倒見てあげますからね」

 それから栄子は、脇に置いていた厚い紙を取り出した。

 何かと思って見れば先日の釣書だ。晶が保管してくれていた筈なのに――――。

「晶の部屋にあったのよ。ね?見てみて頂戴。経歴なんか文句のつけようがないでしょう」


 と言うことは、晶の部屋を勝手に荒らしたのだ。母であっても許されないことと華夜理には思えた。

 しかしそれを抗議するには今の自分の立場は弱過ぎる。

 釣書にはそこそこ整った顔立ちの、華夜理より十以上は軽く年上そうな男性の写真が載っている。

「華夜理ちゃんの体調さえ回復したら、いつでも見合いの席を準備するわ。任せて頂戴。この家を使っても良いし、どこかの料亭でも良いわね。一流どころを手配しないと」

 栄子の弁舌に、華夜理の熱はますます上がる気配を見せた。

 それを見て取った栄子が、信じられないことに舌打ちする。

「いつまでも病人気取りでいないでね。貴方ね、晶に何もかも任せて甘えが過ぎるのよ。熱が出るのも甘えの一種ね。好い加減、大人になりなさい。じゃ、釣書はここに置いていくから」


 滔々と説教した栄子はお盆を持って、襖をぴしゃりと閉めて出て行った。

 川面に銀の薄と鷺が描かれた襖の立てた音の激しさに、もし鷺が生きていたなら飛んで行ってしまいそうだと華夜理は思った。

 この一幕だけで華夜理は身体中のエネルギーを使い果たしたように感じた。

 栄子の、晶に何もかも任せて甘えているという指摘は、図らずも華夜理の胸を鋭く抉った。


 華夜理はぐったりとして、身を布団に横たえた。

 風邪薬の副作用もあるのだろう、眠気がそう経たない内に華夜理に訪れた。


 枕元に置いていたスマホが鳴る音で、華夜理は目覚めた。

 公衆電話からの着信だ。もしかして、という思いで画面に触れる。

『もしもし、華夜理?』

「晶?どうして?今、病院よね?」

『うん。病院内の公衆電話から掛けてる。小銭が少ないから、余り長く話せないけど』

「晶……。浅羽が、来てくれたわ」

 スマホの向こうで笑い声が聴こえる。少し懸念混じりの。

『母さんたちもだろう?大丈夫かい』

「うん。うん、晶。大丈夫」


 この声を。気遣いを。優しさを。晶の心全てを手放すなど出来そうにないと華夜理は思ってしまう。


『ごめん、小銭が切れる。とにかく、僕が退院するまで何とかしのいで』

「うん。晶。晶は治療に専念して」

『ありがとう。じゃあ、また』


 今までは家で顔を見ての遣り取りが当たり前だっただけに、晶との通話は華夜理には新鮮で、そして栄子によって与えられた精神的ダメージが払拭されたように思えた。


 華夜理は寝床の中で胎児のように丸くなり、微笑していた。


 叔父である慎一郎の声が聴こえたのはそんな時だった。

「華夜理ちゃん?夕食も摂らずに寝てたんだって?」

 さらりと襖が開く。

 今日の慎一郎はスーツではなく、シャツにセーター、スラックスという軽装だ。

 それでもどことなく威厳がある。

 慎一郎は華夜理の枕元に座った。

「あれがきつく当たってすまないね」

 尋ねるまでもなく栄子のことだ。

「いいえ、お世話になっていますし」

「君のような少女は、もっと大人に庇護されて然るべきなんだ」

 しんみりとした口調に、なぜか華夜理は微かな悪寒を感じた。

 その口調にどこか、粘着質な湿り気があったからかもしれない。呼気に酒の匂いを感じる。呑んでいるのだろうか。

「それにしても綺麗になったね。去年会った時はまだ子供だと思っていたのに」

 慎一郎の手が華夜理の髪に伸びる。

「綺麗になったね。本当に…」

 次に頬を撫でられる。

 今度ははっきりと悪寒がした。

「晶には勿体ない」

 大きな手が、浴衣の襟元に向けて伸ばされる。

 伸ばされる――――。

 その動きがスローモーションのように見えた。


(晶)


 絶望的な思いと共に、どこかで柘榴が爆ぜる音が聴こえた気がした。

 粉々に砕け散った、真紅の煌めきが。

 




挿絵(By みてみん)





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