其ノ廿壱
天岩戸とする訳にも行かず、華夜理は一つ、息を吸うと、手の震えを意志の力で抑えながら引き戸の鍵と引き戸を開けた。
長く黒い影の実像が現れる。
栄子は白に黒混じりの毛皮のコートを着ていた。何の獣の毛皮だか、華夜理には解らないし知りたいとも思わない。そして一体、何着のコートを持っているのか考えると同時に、これ程に奢侈ではお金が幾らあっても追いつかないだろうと華夜理は思う。
栄子は一人ではなかった。
「叔父さん…」
「やあ、華夜理ちゃん。具合はどう?」
栄子のように人を圧するオーラのない叔父・慎一郎は、それでも一徹といった風情の雰囲気を漂わせた、渋い俳優のような顔立ちをしている。晶とは似ていないが、端整ではある。但し作りがやや大振りだ。彼もコートを着ていたが、妻のように自己主張の激しいものではなく、消し炭色のトレンチコートを粋に着こなしている。如何にも社会的立場の高い人間という風貌である。
「叔父さん、お仕事はどうされたんですか?」
「優秀な専務に任せてあるよ。可愛い姪の一大事とあっては、仕事よりもこちらを私は優先するよ」
「そうそう、この人の地位なんて肩書だけなんだから。子供は余計なこと気にしないのよ。貴方、昨日から着替えてもいないんでしょう」
話しながら家の中に堂々と二人は上り込み、応接間に歩みを進めた。
予期されていた出来事だった。
華夜理は身支度を整える時間が欲しいこと、病身ゆえに浴衣姿となることを二人に告げ、許しを乞うと、自分の部屋に戻った。
「…………」
頭が熱くて沸騰しそうだ。沸々と、赤い泡が無数に浮き上がる様を思い浮かべる。だが今、この家で、自分を守れるのは自分しかいない。浅葱にも浅羽にも彼らの生活があり、最も頼るべき晶は病院だ。
華夜理は両頬を軽くぴしゃりと叩くと、竜胆柄の浴衣に着替え、丹前を羽織った。本当であればこのまま寝てしまいたい。身体も心もそれを要求している。
けれど来客という名の侵入者たちに対応しなくてはならない。
華夜理は違い棚の上の備前焼に活けた土筆と菫に目を遣る。もうすっかり萎れている。ここのところ、手を掛ける心の余裕がなかったのだ。
備前焼から萎れたそれらを抜くと、部屋を出て台所まで行き、生ごみ入れに無表情で捨てた。無明の闇に消えゆく花たちの屍。
――――――もっと本当に捨てたいものは別にある。
心底からの欲求を宥め、飼い殺しながら華夜理は応接間に足を向けた。
応接間ではコートを脱いだ慎一郎と栄子がまるで部屋の主のようにジャガード織りのソファーに座っていた。
コートを脱いだ栄子は、濃紺にオレンジのストライプが効いたワンピースに、真紅のレースのボレロを羽織っている。
慎一郎はもう少し控え目のグレンチェックのスーツだ。
昨年の冬にも呆れたことだが、栄子はとても家事をするとは思えない服装でこのうちに来るのだ。
栄子は堂々と脚を組み、煙草を吸っていた。
華夜理をちろりと見遣る。
「寝てなさいよ。どうせお風呂も入れなかったんでしょ。沸かしてあげるから。それからこの家に滞在中、私とこの人は去年と同じように離れを使わせてもらうわよ」
何か文句ある?といった口調で言い切られ、華夜理は大人しく首肯する。
「はい。そうしてください。……ご面倒をお掛けします」
屈辱的な思いを堪えながら、華夜理は二人に――――主に栄子に頭を下げた。
覿面、栄子がにこやかになる。
「解ってくれれば良いのよ、華夜理ちゃん。私たちは貴方の看病に来たんですからね」
「晶は……」
「ああ、あの子ね。着替えとか手続きは一応、こっちでやるから心配ないわ」
素っ気ない態度に華夜理は不安になる。しかも実の息子の入院という大事にこの乾いた口調ときたらどうだ。
栄子は華夜理の心情など知らぬげにふう、と紫煙を吹かしている。病気の人間への気遣いなどあったものではない。
その紫煙が、シャンデリア目指して高く、高く昇る。
もし自分が健康であれば。頼り甲斐のある人間であれば、と華夜理は思わずにいられなかった。
熱のせいかこめかみがどくどくと脈打っている。
挨拶して応接間を退出しようとすると、栄子に呼び止められた。
「華夜理ちゃん。この間のお話、考えてくれた?釣書は、ちゃんと見てくれたかしら?」
釣書などというものの存在を華夜理はすっかり忘れていた。晶に預けて保管してもらった。晶はその際、本当は燃やしたいところだけど、と言っていたがあれは軽口だっただろうか。
「いえ。まだ、余りよく見てなくて」
栄子が大仰に溜息を吐く。真紅のボレロが、それに伴って揺れた。
柘榴の波のようだと華夜理はこの場に相応しからぬことを考えた。
「私たちがここにいる間に、よく見ておいて頂戴な」
その声は威圧の響きを帯び、ほぼ命令に近かった。
華夜理の寝ている間に暁子が訪ねてきたが、栄子が追い返してしまった。
しかも栄子は華夜理に、暁子には急用が出来たようだと嘘を吐いた。栄子としては、自分たちの他、華夜理に頼るべき大人が出来る事態は歓迎出来ないものだったのだ。
だが栄子はするべき家事はこなした。慎一郎はその間、離れから出ることはなかった。
入浴も危ぶまれる高熱だった華夜理は、湯につけて絞ったタオルを栄子に用意してもらい、それで身体を拭き上げた。
そうして眠り、起きて用意された病人食を、晶も似たようなものを食べているのだろうかと考えながら食べると、少し気力が湧いた。
病院内ではスマホは使えない。
晶の声が聴きたくても聴けない状況は、辛いがここを正念場と華夜理は思い定めた。
(お父さんと、お母さんと、晶は違う)
そう強く自分に言い聴かせた。
それに夜になると、明かり障子から華夜理の部屋への訪問者がいた。
ほとほとと鳴る障子を開けると、そこには予想していた通り、浅羽が立っていた。
にっ、と悪童めいた笑いを見せる。
「よ。ばばあたち、来てんだろ?」
「浅羽……」
不意に涙ぐみそうになって、自分がどれだけ気を張り詰めていたかを知る。
付書院に置かれた透明硝子の金魚鉢や数冊の本を脇に退ける。
浅羽はさっさと上り込み、そして障子を閉めてさっさと華夜理を寝床に就かせた。
「どうだ。いびられてないか。大丈夫か」
「うん……。でも今日ね、安西先生が来なかったの。きっと叔母さんがうちに入れなかったんだわ」
浅羽が腕組みする。
「性質悪いな」
率直だった。
「グスコーブドリはそのあと、どうなったの?」
急な話の転換に、浅羽が虚を突かれる。
華夜理の顔を見る。
熱のせいか薔薇色の頬に瞳は澄んだ輝きを宿している。
これは、と浅羽は思った。ひやりとした背中の冷たさと共に。
「……続きを聴きたいのか?」
「うん」
にこにこと、華夜理が笑う。童女めいて。
確実だった。
浅羽は付書院から『銀河鉄道の夜』を選んで華夜理の枕元まで持ってきた。
その際、違い棚からこの間まであった土筆と菫が消えたなと思う。
胡坐を掻き、先日の途中から読み始める。
「……〝おまえも若いはたらき盛りを、おれのとこで暮してしまってはあんまり気の毒だから、すまないがどうかこれを持って、どこへでも行っていい運を見つけてくれ〟」
「その人、偉いわね」
不意に華夜理が冷静な声音で言い差したので、浅羽は朗読を途中で切った。
「偉い?」
「そう。本当はきっと、グスコーブドリにいてもらいたかった筈。でも、グスコーブドリの為に、彼を解放するの」
華夜理の目は透徹としている。
「私もいずれは晶を解放しなくちゃいけないわ」
「……お前と晶は、そんな関係じゃないだろ」
「浅羽。桐箪笥の、下から二段目を開けて?」
浅羽は戸惑いながらも、本を置いて華夜理に言われた通りに桐箪笥の下から二段目を開けた。そこには真っ白なレースのハンカチが何枚も収まっていた。桐箪笥の隅に、純白の湖が出現したようだ。
「晶がくれたの。晶がくれたの。いつまでも晶は、レースのハンカチをくれるのよ。――――――私に、お父さんとお母さんをくれることが出来ないから」
それはまるで純白の呪縛。
呪縛しているのは華夜理か晶か。
この華夜理は果たして平生の華夜理だろうか。
幼児退行しているにしては、話に一応の筋が通っているようにも思える。
「だからね、浅羽」
凛とした声で華夜理が続ける。
「今回は良い機会なのかもしれない。私から、晶を解放する」